-1. 前日の夜、境界上

── Any sufficiently advanced skill is indistinguishable from a spell.


「またのぞき見ですか、紫(ゆかり)様」
「……ちょっとこっちに来なさい」
 八雲紫(やくも ゆかり)は僅かに思案した後、自分の式神を呼び寄せた。少し離れた位置で自分の主人の様子を見ていた九尾の式神は、はい、と返事をして近寄ってくる。
「いいですか? 藍(らん)」
 式神を正座させると、紫は手に持った扇子をぱちんと閉じた。
「貴方の自律系処理機能はもう少し、精度良く設計してあります。少なくとも、今の私の様子を観察した結果として、そんな解を導き出してしまうような雑な作りにはしていません」
「……はい」
 式神はしゅん、と、元気のない返事をした。
 彼女──この式神の性別は雌で、そのように設計し構築してある──の主人は詰まるところ、もっと考えてものを言え、と言ってるのだ。
 式神というのは、言ってしまえば術者が組んだプログラムである。依り代、つまりハードウェアに九尾の狐を使い、八雲紫が一から編んだ術式、つまりOS(オペレーティングシステム)を乗せたものが彼女、八雲藍(やくも らん)だった。
 「九尾の狐」といえば、妖狐の中でも最も高位に位置する妖力体である。格の高い類い希な妖気を基礎に用いて、最上級の技量を持つ術者が紡ぎ出した式神。当然、術者が直接操った時には最高の──それこそ術者本人と寸分変わらない程度の──性能を発揮するように作られている。
 しかし、当たり前だが、年がら年中術者が操っているわけにはいかない。もしそうするのなら、それは術者本人が自分で動くことと何も変わらないからだ。
 だから式神には、自律系、つまり、式神が自分の意志で判断し行動できる能力が与えられていた。
 それを「人格」と呼んでも差し支えはないだろう。実際のところ彼女の思考能力、特に記憶力と計算能力はほとんどの人間を上回り、その身体制御能力は多くの妖怪を上回る。その程度には最初から作り込まれていた。
 そして、その人格を納める「器(うつわ)」は紫にあわせて最適化されている。つまり人格が紫の意図を汲み取り、紫の考えのとおりに的確に動くことが出来るのならば、藍は自律状態でも紫と変わらない能力を発揮できるはずだった。
 「紫と変わらない能力」とはつまり、思考、精神力、身体能力、全ての面において最高クラスの神々と匹敵する、という意味だ。
 もっとも藍の「人格」はまだ、その域にはとうていたどり着けていないのだが。
「もっと、情報を収集することに積極的になりなさい」
 紫は、閉じた扇子の先を額につける。一度目を伏せ、それから再度自分の式神を見た。
「意識して感覚器官の感度を上げ、入力帯域を広げなさい。得られた情報から導き出される全ての可能性を評価しなさい。その時点で想定可能なあらゆる状況のモデルをリアルタイムに組み上げて、予測と観測の差分からモデルを逐次修正するの。初期段階で検索条件を付与することは、最終的には全体的な処理効率の向上に必要となりますが、貴方の現在の最適化状況では時期尚早で有効とはいえません。混沌(カオス)系諸問題に対処できなくなる可能性が高すぎるわ。もう何度か言ったはずで、前回よりは改善が見られるけど、まだまだ不足」
「……申し訳ありません、紫様」
 消え入るような声がした。
 頭だけでなく、まるでしなびた春菊のように耳としっぽまでうな垂れさせた式神に、紫はやれやれ、とでも言うように肩を竦めた。
「まあいいでしょう。わざと一般解から外れた観測結果を提示して、私の注意を引こうという対話戦術はそれなりに理にかなってます」
 ぴく、と、垂れた耳が反応した。
「ただもうちょっと、品のある冗談を選択すること。分かった?」
 狐の式神は僅かに顔をあげ、はい、と、照れたような笑い顔で答えた。
 いまのは言葉は、主人が褒めてくれたのだ。彼女にはそれが分かった。
「まったく……どこから学習してきたのかしら」
 紫は扇子の先をあごの下に当てて、上目遣いに天井を仰ぎ見た。
 天井と言っても、ここにはいわゆる「天井」はない。
 ここは紫自身が作り上げた空間だった。全ての事象と事象の境界線上に位置している。
 彼女のことを知るものからは、「隙間(スキマ)」と呼ばれている場所だ。八雲紫はこの空間を通して、ありとあらゆる場所へ自由に行き来することができるのだ。
 もっとも、場所の移動程度のことは、彼女の能力のほんの一端でしかないのだが。
「それで? 貴方の目的は果たせたの?」
「はい、七割がた」
 式神はうれしそうに答える。
 ……行動原理の重み付けに修正が必要かしら、と思いつつも、しかし紫はうなずき、手に持った扇子の先で、ぴっ、と空間に切れ目を入れた。
「では、残りの三割にも答えてあげましょう」
 切れ目は広がり、その先に別の景色を、夕日に照らされる洋館を映す。窓が少なく、外壁が赤茶けた焼き煉瓦でできている古い洋館。藍は正座したまま身を乗り出してのぞき込み、夕刻とはいえ夏の強い日差しの名残を残す太陽光が、赤い洋館をさらに赤く染め上げている光景を見つめた。
「……紅魔館、ですか?」
 蛇足だがこの問いは、「この建物は紅魔館ですか?」という意味ではない。藍は正確に、空間の切れ間からのぞく洋館は紅魔館であると認識していて、それを確認する必要などどこにもなかった。
 彼女は、「紫様が先程観測されていた対象は紅魔館に居るのですか?」という意図で聞いたのだ。
 そしてその意図は、正しく主人に伝わっている。
「もう間もなくよ」
 紫は扇子を半分だけ開いて口元を隠す。藍の視界を妨げないような位置から、再び紅魔館に視線を落とした。
「吸血鬼が動くわ」
「……」
 わざわざ記憶を検索するまでもない。紅魔館にいる吸血鬼は二体である。
 そのうちフランドール・スカーレットについては、現時点で「動く」と判断できる程の材料はない。そう藍は認識していた。ある存在がなにかの行動を起こすときには、それに先んじて必ずその兆候が発生する。もし「全くの突発的」と思える出来事があったとしても、それはそう思った側が、その兆候や因果関係に気づいていなかっただけなのだ。
 現時点において、フランドール・スカーレットが何かの行動を起こすであろう外的要因の発生もなく、内的要因の動きも閾値を超える程ではない、九尾の式神はそう評価していた。
 では、姉の方はどうか。
 紫様が「動く」とおっしゃっているのは、おそらくこちら、レミリア・スカーレットの方だろう、と藍は考える。
 実は藍も、この吸血鬼はそう遠くない時期にまた騒動を起こすだろうとずっと思っていた。しかし現時点に至るまで、具体的な日時を特定できる程の有意な情報はないし、そもそもどう「動く」のかというところまで考察が終わっていないので、根拠のない「感想」の域を抜けていない。
 紫が物事を判断するための情報の大部分は、藍が集め紫に報告しているものだった(と、藍は思っている)。だが紫自身も情報収集を行っており、その全てを藍は教えて貰っていない。そういった情報の中に、何か前兆があったのだろうか。
「そんなに難しい話じゃないわよ」
 藍は、自分の思考回路が主人にモニターされている可能性を検討した。──ありえない話ではない。想定しうる可能性の中で最もシンプルな答えが真実だ、と紫は言うが、何が紫にとって「最もシンプル」なのか、藍にはまだ見当もつかない。
「あの吸血鬼が来た日と、妖怪の山に挨拶に来た日を考えなさい」
 紫が、子供に諭すように語りかける。
「これらの延長線上には、今晩以外は浮かばない」
 今晩。
 藍は分析を──主人の言葉の分析を始める。
 吸血鬼が幻想郷に来た日と、妖怪の山に初めてやってきた日。一番大きな共通項は、どちらも満月の夜だということだ。
 妖怪の行動にもっとも関係が深いのは月の満ち欠けである。満月の夜に全ての妖怪は最高の力を発揮し、新月には逆になる。妖怪同士が何らかの意図を持って衝突する場合、どちらの状態を選ぶか、あるいは選ばないかは、妖怪の性格に強く依存する。また意識していなかったとしても、満月に近づくに従って妖怪の気分は高揚し活動的になる。活動的なものは衝突しやすい。
 確かに彼女──レミリア・スカーレットには、これまでのところ、満月の夜を選んで活動する傾向が見られた。おそらく、自分自身の能力が最大限発揮できる時を選んでいるのだろう。
 もちろん幻想郷へ来た日は、移転するための儀式の都合で選ばれたという面が強いものの、その日のうちにさっそく近所を飛び回り、たまたま遭遇した妖怪たちと悶着を起こしている。
 こういった「散歩」は連夜行われたが、下弦の月に近くなった頃にはぱったりとおさまった。そして上弦の月を越えた頃から活動は再開される。その時には、彼女の目標は明らかに「妖怪の山」に絞られていた。
 夜を重ねるごとに少しずつ山に近づいていき、そして満月の夜に正面から、正々堂々と、お供を連れて山の玄関口に現れたのだ。
 もっとも、実は単に気分屋なだけで、気乗りしないときには一切動かないと言うだけのことかも知れない。だがその場合でも、月の満ち欠けが行動原理に直結していることに変わりはない。
 しかし、と式神は逡巡する。
 満月は明日なのだ。
 紫が月齢を間違えることなどありえない。では月の満ち欠け以外に、見落としている要素があるのだろうか?
 藍は記憶をたどり、いま紫が提示してくれた出来事の再評価を始めた。まずは時系列的に近い、あの吸血鬼が妖怪の山へやってきた時のことをトレースする。
 あの、人間たちの間では「吸血鬼異変」と呼ばれている日のことを。




 空中に突然、二つめの月が現れた。
 一つめの月は天に高く在り、丸く大きな明かりとなって空を地を照らしている。空においては雲をうっすらと浮かび上がらせ、地においては木々の輪郭を微かに醸し出していた。
 その、空と地の境に悠然とそびえ立つ、黒々とした山影。二つ目の月が現れたのは、その山の中腹辺りである。
 突如として現れた明るい光の玉は鋭く輝き、慌ただしくその大きさと明るさを変化させる。天に昇る月は我々妖怪を見守り力を与えるが、この二つめの月は、まさに我々を脅かし不安を与える──
「……ふむ、言い回しが感傷的、かつ、あまりに冗長すぎますかね」
 天狗は手に持ったペンの後ろで、こりこりと頭をかいた。
「まあ多少工夫すれば、記事の書き出しに使えるでしょう。……っと、こうしちゃいられない」
 ひとしきり独りごちた天狗はペンを仕舞うと、
「もう始まっているとは、ちょっと出遅れてしまいましたかねぇ」
 空中で少し前屈みになり、勢いをつけた。疾風が巻き起こる、と同時に天狗は山の方へ、「二つめの月」の方へと飛び去った。


 「二つめの月」を生み出したのは、二体の妖怪だった。
 まばゆく輝く光は、矛と盾、二つの相反する力がぶつかり合って生じている。その光だけで、人間の意識は吹き飛び力の弱い妖怪は蒸発するのではないかと思われた。片や禍々しいほどの紅蓮、片や神々しいとさえ言える蒼白。二種類の波長をもった暴力的な光芒はぶつかり、せめぎ合って、ともに周囲を照らしあげていた。
 紅の輝きの主は、紅玉のように紅い目をした小柄な吸血鬼。薄い赤色のワンピースに、同じ色のナイトキャップ。随所に赤く大きなリボンをあしらった、彼女お気に入りの「いつもの格好」だ。彼女は右手の爪を衝角とし、矢のような勢いで自らの身を打ち出した。あふれ出る紅い妖気を隠そうともせず、それを身にまといながら、岩山に風穴を穿つほどの破壊力を伴って。
 それを受け止めたのは、白い衣装に藍染めをあしらった姿の九尾の狐。左の小手、つまり手首と肘のあいだに五芒星の魔方陣を編み、盾のように掲げて身を守る。半身に構え、全ての衝撃を受けとめていた。感情の無い眼差しは魔方陣越しにまっすぐに「紅い悪魔」をとらえ、その口元は真一文に引かれている。青白い魔方陣は小刻みに揺れ、吸血鬼の爪先との衝突で火花のように光の粒をまき散らした。
「……ふん」
 紅い悪魔──レミリアは半目の表情で鼻をならすと、弾かれたように後ろに飛んで距離を取った。ひときわ大きな輝きとともに、二つめの月は消滅する。
 九尾の狐──八雲藍は用心深く、レミリアの出方を伺いつつ魔方陣の盾を下ろす。山の頂を背に、満月の逆光に照らされたまま、半身の構えを崩さない。
「なかなか頑丈じゃない、貴女の使い魔は」
 レミリアはゆっくりと背筋をのばすと、藍の方を──いや、その後ろに向かって声をかける。
 藍の背後には、大きな日傘をさした女性がいた。紫色のワンピースを着て、空中で「何か」に腰掛けている。
 彼女、八雲紫は自ら作り出した空間の切れ目──隙間(スキマ)──に座ったまま微笑んだ。口元は楽しそうだが、両の目はそうではない。
「社交辞令はお上手なのね」
 紫はゆっくりと答える。
「礼儀作法の方は誰も教えてくれなかったの?」
「そっくり返すわ。使い魔の躾くらい、ちゃんとやっておきなさいよ」
 レミリアは、両手を腰に当てる。
「そもそもわたしは、あの山に用があるの」
 くい、とあごを突き出した。
「貴女や、ましてや狐ごときじゃないわ。邪魔をしないでちょうだい」
 山。
 藍と紫の背後には、標高の高い山のシルエットが夜空に浮かんでいた。
 頂上を切り崩されたような、不自然にゆがんだ輪郭を持つその山は、過去には別の名前があったものの、今は幻想郷の住人から「妖怪の山」、あるいは単に「山」と称されていた。その名の通り、その山の頂と、麓に広がる森にはたくさんの妖怪が住まい、平地に住む人間達と共存している。
「山にいって、何をするおつもり?」
「貴女に話す必要はないわ」
「では、」
 紫は心もち目を細めた。
「ここを通すわけにもいかないわね」


「……ふむ」
 天狗は眉をひそめた。右手で拳をつくって唇に当てる。
「ここからでは少々聞き取りづらいですね。いったい何を話しているのでしょう」
「気になるかい?」
「それはもう」
 そう質問されること自体が意外、あるいは心外とでも言いたげな表情と口調で、隣にいる角の生えた上司──いや、元・上司を見た。
 念のために断っておくと、この「角の生えた」は比喩ではなく、単なる身体特徴の描写である。
「我々鴉天狗は、情報収集がその役目ですから。ありとあらゆる情報を可能な限り集める責務があります」
「それを新聞のネタに使おう、って?」
 意地悪そうな視線を天狗に向ける。天狗はわざとらしく肩をすくめた。
「集めた情報は、すべからく世間に還元しなくてはいけませんからね。まあ、特等席で取材出来るのは重畳ですけど」
「するとこの場には、どっちの『仕事』で来てるんだい」
「役得というものですよ」
「職権乱用の間違いだろ」
 角の生えた元・上司は楽しそうに笑うと、手に持ったひょうたんを口につけ、ぐいとあおった。
 レミリア達の居る場所から多少山よりの、百メートル程度離れた場所。彼女らの行動を邪魔しないように気を配りながら、ふたりは空中に並んで浮いていた。
 ──妖怪の山には多種多様な妖怪が集落を作り住んでいた。その中でもひときわ大きな勢力を持つのが「天狗」である。
 一口に天狗といっても、その中はさらに細かい種族に分かれ、その種族ごとに役割が決められていた。ここに居るのは鴉天狗、つまり情報収集を主な役目とする種族である。持ち前の好奇心と足の速さを誇り、特に速さの方は「幻想郷最速」との異名をとる程である。
 その天狗が過去仕えていたのが、「鬼」と呼ばれる種族。
 変幻自在。自由に自分自身の大きさを変えることができ、自由に自分の分身を作り出し、どこにでも出没し、それでいて地を割り山を崩すほどの腕力を持つ。彼らの腕力は軍神にすら匹敵する、とも言われていた。
 それだけにとどまらず、彼らは種族として強い精神力と徳を兼ね備えている。天狗が最速なら、鬼は「最強」としか表現できない程だった。
 ただし、現在の幻想郷では鬼の姿はほとんど──いや、まったく見ない。
 もともと鬼は、人里に頻繁に現れるような妖怪ではない。それでもある時期を境にぱったりと、「見た」という話すら聞かれなくなった。噂では、そろって幻想郷とは別のところへ移住したのだと言われている。
 腰からひょうたんを下げ、頭から二本の角を生やし、体に鎖を巻き付けた格好の彼女は、幻想郷で久しぶりに見る鬼の姿であった。見た目は(角と鎖を除けば)普通の少女の格好で、今の身長や体型は小柄と表現できる。赤い大きなリボンを付けた栗色の髪は腰まで伸び、前髪は目の上あたりで切りそろえてあった。角には紫色のリボンを結んでいるなど、身だしなみとしては若さ、少女らしさが感じられるが、それでも彼女には山ほどの背丈になることも、子猫ほどの大きさになることも、何十、何百体と分身を作ることも造作ないはずだった。
 鬼が少女なら、天狗も少女である。
 年格好は、人間で言えば十代の学生のようだった。修行僧のような頭襟を頭に乗せ、腰には大きな団扇と分厚い帳面を下げている。しかしその一方で、身にまとう服装はどう見ても洋装だった。随所に黒いラインが入った白いブラウス、襟元には黒い細身のリボンタイ。膝上の丈の黒いスカート。紺のハイソックスにローファーの革靴。だがよく見れば、その革靴には長い歯が生え、高下駄風になっていた。和洋折衷というよりは、今風とはいえ随所に古式をあしらった不可思議な格好だ。
 そして何より、彼女が首から提げているのは、フィルム式(のような外見)のカメラだった。好奇心が強く、新しいものに興味が尽きない、現代に生きる天狗ならではといったところだろうか。古来からの天狗の装束をアレンジした、若さ故の現代感覚である。
 もっとも、妖怪の年齢を人間の常識で判断することは出来ないが。
「おっ」
 吸血鬼たちの様子を見ていた鬼が、空中にあぐらをかいたまま身を乗り出す。
「そろそろ動きそうだ」
「……第二ラウンド、というところですかね」
 天狗がカメラに手を伸ばす。鬼は横目で彼女を見て、にやりと笑った。
「言い回しがハイカラだねぇ」


「貴女は何なの、あの山の番人?」
 レミリアは片手のひらを上に向ける。
「だったらいいかげん、話を通してくれないかしら」
「番人、はある意味正解」
 紫は半分開いていた扇子を、ぱちん、と閉じた。
「でもここには、自分の意志で立っているわ」
「ふーん」
 レミリアは腕を組む。
「よっぽど暇なのね」
「ここに来てからのあなたの様子は、」
 紫は吸血鬼の言葉を無視して、先を続ける。
「ええ、よく知っています。山へは……そうね、『けんかを売りに来た』というところかしら?」
 表現を選ぶために、若干間が開いた。
「もう幻想郷中の妖怪達が、あなたの武勇伝を知っているわ」
「それはどうも」
 レミリアはにやりと、口元を緩ませた。
「その『幻想郷中の妖怪』のなかには、あの山の主も含まれてるんでしょうね?」
「もちろん」
 紫は閉じたばかりの扇子をまた半分開き、口元を隠す。
「様々な意見が出ているわ」
「だったら話は早いわね」
 レミリアが目を細めた。
「いいから通してちょうだい。直接会って話してくるから」
「……困るのよ」
 紫が目を閉じる。
「経緯はどうあれ、あなたは私がここに呼んだのですもの。ここを騒がすようなことは看過できないわ」
「それで何故、貴女が困るのかしら」
 レミリアは面倒くさそうにため息をつく。
「貴女が困るのは貴女の勝手だけど、わたしには関係ないわ。ここへはわたしの意志で来たの」
「自分が置かれた周囲の状況、自分の行動が及ぼす周囲への影響。社会性の未発達なあなたには理解できない話かしら」
 肩をすくめながら、ちら、と紫は藍を見た。
「たかだか五百歳程度では、それが限界かしらね」
「どうでもいいわ、わたしはお子様ですもの」
 レミリアはにやり、と笑ってみせる。
「……お嬢様」
 畳んだ日傘を両手で持ち、後ろに控えていた咲夜がたまらず声をかけた。無意識に一歩前に出る。
「下がってなさい、咲夜」
 レミリアは振り向きもせず言った。組んだ腕をほどき、心持ち前屈みになって腰を落とし、右手を腰に溜める。
「帰ったら食事にするわよ、メニューをどうするか決めてる?」
「……いえ」
「じゃあ、そのことを考えてなさい」
 レミリアは肩越しに、ちらり、と咲夜を見た。
「あんまり時間ないわよ」


 目前の吸血鬼が、話す姿勢から戦闘態勢に入った。九尾の式神はそう判断した。
 ──いいこと、藍。
 表情のない相貌の奥で、八雲藍は主人の言葉を反芻する。
 ──吸血鬼の目的は、幻想郷の中での自身の位置を確かめることです。自分より強いものが居るのか居ないのか。居ないのであれば自分が支配すればいい、居るのであれば自分の力を見せつけることで、余計なことを言われないように釘を刺すことが出来る。
 つまり、と藍は言葉を継ぐ。
 つまり吸血鬼に、お前の力では好きなことは出来ないぞと思い知らせればよい、ということですか?
 ──少し違うわね。
 紫は僅かに眉をひそめた。
 ──でも、結果としてはそれで良いわ。私たちの戦術的な目的は、吸血鬼を妖怪の山に入れないこと。いい?
 分かりました、と式神は主人に答えた。
 つまりは、攻撃し懲らしめることよりも、防御しきって相手に無駄だと悟らせることを重視する、ということだろう。式神はそう判断した。
 そういうことなら難しくはない。相手の動きに反応して、あらゆる行動を防ぎ、あるいは妨害してやれば良いのだ。とはいえ……
 藍は表情を動かさないよう気をつけながら、意識を左腕にやった。先程の攻撃を受けたときのしびれはまだとれていない。神経から伝達される情報を総合すると、骨にひびが入っている可能性が非常に高い。
 あの速度と破壊力。事前に観察していた通りとはいえ、驚異には違いない。
 藍は意識を集中させた。神経回路を通じて全身を精査する。左腕は、腕ごと結界で補強してしまえば大丈夫、それ以外の四肢と五体は全くの正常だ。つまり、状況の継続に支障はない。
「さて、と」
 と、吸血鬼が構えを変えた。右腕を後ろに伸ばし、体を大きくひねる。
「お子様はお子様らしく、おもちゃで遊ばせて貰うとするわ」
 吸血鬼が笑う。紅い紅玉のような猛禽類の瞳をこちらに向ける。藍は微かに眉をひそめた。が、すぐに元の表情に戻す。
 大丈夫、支障はない。
 藍は両の目で吸血鬼の全身を捕らえ直し、相手の構えにあわせて、自分の姿勢を微調整した。


 レミリアは後ろに回した手に妖気を集中させた。閃光が走り、妖気は集まって大きな風車のような形をなす。と同時に吸血鬼は、その風車──というよりは、レミリアと同じくらいの大きさの手裏剣を、サイドスローで放り投げた。
「!」
 鋼より堅く固められた妖力製の手裏剣は猛烈な勢いで回転しつつ、大きな弧の軌跡を描いて式神に迫る。
 右下から回り込み、左上に浮かぶような手裏剣の弾道。藍は即座に時計回りの角速度を計測し、右の掌底で手裏剣を下から叩き上げた。ガキン、という、鉄球を金属バットで叩いたような鈍い音が闇夜に響く、と同時に、式神のもつ全ての感覚器官が藍に向かって警鐘を鳴らした。
「意識がお留守ね」
 いつの間にか、レミリアが藍の懐にいた。手裏剣の影に隠れて間合いを詰めた吸血鬼は式神の左足を狙って、横からなぎ払うように左の手刀を振り上げる。
「っ!」
 藍は体をひねり、左腕の魔方陣でその手刀を受けた。ギィィ、と、金属同士をこすりあわせたような耳障りな酷い音がする。
「この程度、うちのメイドなら避けたわよ?」
「……」
 安い挑発だ。藍はレミリアの言をそう評価する。そう、安い挑発。
 だが、それは──避けるということは、主人が課した指示に反するものだ。
 藍は左腕を支点にして体を回転させる。高く上げた右足のかかとを吸血鬼目がけて振り下ろした。
 レミリアは魔方陣に当てた手刀を突き放すようにして下方へ脱出、距離をとる。追い打つように藍は妖力を固め、針状の弾丸にして撃ち出した。
「咲夜のナイフより全然ぬるいわ!」
 レミリアは降り注ぐ弾丸の雨を縫うように飛翔する。僅かな隙間を見つけて急停止。振り向いて右手のひらに妖力をため、ばらまくように前へ──藍の方向へ放った。妖力同士がぶつかり合い、相殺されて弾け飛ぶ。細かい妖力の粒が霧となって、まるで煙幕のようにレミリアの視界を遮った。
(空中だと、蹴る壁や天井が無いのがね……)
 レミリアは空中で急停止し、それから急降下。端からみていると十分に高速な機動だが、床や柱を蹴っての方向転換に比べればどうしてもラグが出来る。本人にとってはもどかしい。背中の大きな羽を巧みに操作して空気の流れを生みだし、それに乗って妖気の霧をくぐり抜ける。式神の背後を取ってしまえばこっちの──
「!」
 吸血鬼の真正面に青白い影が現れた。白装束、藍染めの模様、黄色い尾は九本。藍はふいに身を沈ませ、一瞬背中を向けると、その勢いのまま裏拳を繰り出してきた。
 レミリアは急制動をかけてやり過ごす。下げた頭のすぐ上を拳が通り過ぎるが、即座にそれを追って下方から蹴りが飛んできた。吸血鬼は頭を跳ね上げ首をひねりつつ回避。間髪置かず、より踏み込まれた軌道で放たれた後ろ回し蹴りを、上半身を大きく反ってかわした。
「このっ」
 レミリアはその姿勢から攻撃に転じる。オーバーヘッドキックのように高く蹴って式神の首を刈りに行くが、しかし藍は左の小手でガード。肘を入れ替え、受け止めた足を無理矢理押して吸血鬼をひっくり返す。レミリアはその勢いにあえて逆らわず、後方宙返りのような姿勢でひざを抱えた。そこへ再び藍は右足を蹴り上げる。
「ちっ!」
 避けられない。レミリアは両手に妖気を集中させて突き出し、蹴りの衝撃に備えた。が、予測したタイミングで蹴りが飛んでこない。はっとして注意を上に向ける。
「しまっ……!」
 吸血鬼の頭上で、式神は両手の指を組んで振り上げていた。そのまま下に振り下ろす。ガンという切り株を木槌で打ち付けたような鈍い音がした、と同時にレミリアは弾かれたように高度を下げる。妖怪の山の麓に広がる広大な森、そのすれすれのところまで瞬時に落下した。
「この……」
 木々の先端にぶつかる前に、レミリアは姿勢を変えて降下を止めた。とっさに顔を上げて、打点を額で受けることで耐えたが、そうでなかったら森の中へ、地面へ打ち付けられていたかも知れない。レミリアは後方に距離を取る。
「このっ、……」
「避ける必要など、」
 藍は構えを解いたように両手を下げた姿勢で、吸血鬼を見下ろしていた。
「一つもない」
「妖獣風情がほざくかっ!」
 レミリアの咆吼に、周囲の空気がざわめいた。体中から妖力が放出される。撒き散らされた妖力の粉がうねり、まるで意志を持っているかのように小柄な少女の周囲を巡る。流転する妖気はすぐに粗密が際立ち、吸血鬼の背後に六芒星の魔方陣を浮かび上がらせる。直径にして、小柄なレミリアの身長の三倍はあるだろう。逆さに組み合わされた正三角形は召喚(ゲート)を意味し、その大きさに比例して、魔方陣の主の求めに答えんとゆっくりと回転を始める。
 レミリアは紅い妖気を湯気のように立ち上らせたまま、大きく肩で息をして、それから閉じていた瞼を開いた。紅玉の瞳が紅蓮の色に輝く。
「……教育してあげるわ、たった今から」
「……」
 藍は無造作に、左腕を体の前に掲げた。五芒星の魔方陣が青白い光を鋭く瞬かせる。素数の頂点を持ち、どの方向からの力に対しても決して崩れない、一筆で書き現せられる五角の図形(ペンタグラム)は封印を意味する。九尾の式神が左手に力を入れる、と同時に、あらゆる干渉を防ぎ弾くための図形は輝きを増した。


「あややや?」
 天狗が思わずつぶやいた。ペンの後ろをあごに付ける。
「ん、どうした?」
「いえね……私の記憶が確かなら、ですが」
 鬼の問いに、天狗は少しだけ上目遣いになった。記憶をたどり、同時に言葉を選ぶ。
「あの式神が口をきくの、初めてじゃないですかね」
「何を言ってるんだか」
 鬼はひょうたんをあおる。中に入っているのはもちろん酒だ。一説には、無限に酒がわき出るひょうたんだ、とのことである。
「うちらのところに遣いに来た時、そりゃもう普通に喋っていたよ?」
 ……鬼をこの場に呼んだのは、紫(むらさき)妖怪自らですか。天狗は顔に出さないようこっそりと頭の中でメモした。
「いえ、普通にしている時は、もちろん普通に話すんですが」
 天狗は視線を、鬼から式神に移す。
「ひとたび戦いが始まると、……集中するというんですかね、ひとっことも声を出さないんですよ。まあ、あの式神が何かと争うことなんて、滅多に無いんですけど」
「へぇ、それはまた」
 鬼は受け答えをしながら、片目をつむってひょうたんの中をのぞき込んでいた。無限に酒がわき出るというのは単なる噂なのかも知れない。
「何というか、それで楽しいんだろうかね。戦いは楽しんでこそだろう」
「まあそもそも、楽しい戦いをするような性格ではないんでしょうな」
 天狗はおどけたように肩をすくめる。
「理解できないなぁ」
 鬼は楽しそうにけらけらと笑った。
「ま、そういうことなら」
 それからまた、ぐい、とひょうたんをあおる。
「吸血鬼の頭に血も上ろうってなものだわな。出自は違えどあいつも鬼だ、楽しまないでは何の意味もないからね……」
 ふと、思いついたように鬼が眉を寄せる。それから合点がいったように、にやりと笑った。
「ははぁ、そういうことかい。目的は三つと思っていたけど、四つ目があったか。紫(むらさき)の大将もいい性格だよ」
「……萃香さん」
「何だい」
 こちらを向いていることに気付いて、鬼は横目で天狗を見る。
「今度その、ひょうたんの秘密について取材させて下さい」
「これか?」
 鬼は手に持ったひょうたんを掲げて見せた。そしてにっこりと笑みを浮かべる。
「いいねぇ、天狗が鬼に呑み比べを挑むとは」
「そんなこと言ってません!」


「いま泣いて謝るなら、半殺しで勘弁してあげるわ」
 レミリアは手のひらを外に向けて、両手をつきだし、胸の前で重ねる。手のひらの前に妖気が集まり、直ぐに大きな球形を形作ると、眩く光を放ちだした。
 それを見て藍は再び構えた。半身に構えて右腕を腰に溜め、左腕を持ち上げて受けの姿勢をとる。
「けどね、」
 現れた光の球を空中に浮かべたまま、レミリアは右手を左肩の後ろに回す。右肩を突き出し、左手は大きく後ろに下げた。左足は若干前、腰をひねって力を溜める。
「もう時間切れよ!」
 引いた右手を真一文字に振り抜き、その軌道上に浮いていた光の球を手の甲で打ち砕いた。勢いよく破裂した妖力の塊はたくさんの破片に分解され、その一つ一つがコウモリの姿に変化する。紅く輝く妖力の翼手目は上下左右に軌道をぶれさせ、あるものは正面から、あるものは大きく回り込んで、一斉に九尾の式神へと襲いかかる。
「……」
 藍は空中に素早く印を切り、周囲に十二の魔方陣を展開した。同時に両の瞳を素早く動かし、不規則かつ複雑に飛来する多数の飛翔体をとらえ、その全ての軌道を計測する。展開し終わった各魔方陣に最低限の指示を与え、妖力で出来たコウモリの迎撃を任せると、自分は左腕の結界を最大出力に練り上げ頭上にかざし──
「遅いわ!」
 直上から吸血鬼が、真下に向かって飛んできた。ガシン! という、まるで鬼の金棒同士がぶつかり合ったかのような鈍い音がする。
「ほらほら、避けてみなさいよ!」
「……」
 再び激しく、妖力で出来た火の粉が周囲にまき散らされた。振り下ろされた吸血鬼の右手の爪を式神の魔方陣が弾く、と次の瞬間には左手の爪がサイドから飛んできた。再び右、さらに左。振り子のような連打の全てが吸血鬼の腕力で繰り出される。式神はその全ての打撃を魔方陣の真芯で捕らえ弾いた。その度に、刀鍛冶が金槌を振り下ろすがごとく、閃光のような火花と鈍い衝撃音が響く。レミリアの左が若干浅く入り、藍はそれを受け流すように弾く。背中が見えるほどにレミリアの上体が真横を向くが、それは右手を思い切り引いた為だった。
「たあっ!」
 閃光と見まごう速度で右ストレートが落ちてくる。式神は瞬時に反応しこれも正面から受け止めた。何百本もの鉄筆が一斉にガラスを引っ掻いたような激しい高周波の騒音が、燃焼するマグネシウムのように激しく明滅する暴力的な光芒が辺りを満たす。
 吸血鬼の右手の爪は式神の左腕を断ち切ろうと、また式神の左腕は吸血鬼の爪を折らんと、互いに一歩も譲らない。ぶつかり圧縮され相殺された力が音に光に転換される。周囲を舞う幾多のコウモリと十二の魔方陣はその光に飲み込まれ、あっというまに存在が消えた。
 その騒音の中、キシッ、と何かが微かに軋む音がした。式神の眉が零コンマ数ミリだけ動く。
 唐突に音と光が止んだ。
 両者はほぼ同時に互いから離れた。レミリアは後方宙返りから逆立ちの姿勢のまま両手を左右に広げる。背中を向けたままあごをあげ、その両目で目標を捕らえた時には、両手のひらには無数の妖力の弾丸が生み出されていた。
「これはどう!?」
 両腕を同時に前へ振る。高速度で撃ち出された無数の紅い弾丸が式神の身体に到達する頃には、藍は体勢を整えていた。離れた弾みで一回転、背中を前に向けるほどに右肩を突き出した姿勢で、引いた左の手首を中心にして鍵十字状に妖力を固める。勢いよく左腕を突き出すと鍵十字は高速で回転し、飛来する弾丸を全て弾き飛ばした。
「……」
 と同時に、藍は右手で印を切る。妖弧の召喚に応じて狐の低俗霊が集まってきた。吸血鬼の周囲を取り囲み、拘束せんとその包囲を狭める。レミリアは体を寝せて右手の爪で縦に切り裂き、包囲を分断すると同時に大きく飛んだ。
「まだまだ!」
 レミリアは縦方向にコマのようにまわりつつ上昇、回転を止めると同時に大きく、野球の投手のように振りかぶる。手にはボールではなく、妖力を固めた短めの槍が三本。オーバースローで撃ち出された槍の束の軌道と速度、想定される妖力量から、弾くだけでは力負けすると判断した式神は左足を空中に踏みしめ、三本まとめて蹴り上げた。勢い余って後方にくるりと回る。


「しかしまあふたりとも、くるくると良く回るねぇ」
 鬼は大きな杯に酒を注ぎながら、感心したようにつぶやいた。
「あれでよく目が回らないもんだ」
 ふと、視線だけを動かす。ひょうたんをもつ右腕はそのままに、左腕を力任せに振るった。吸血鬼が放ち、式神が蹴り飛ばした妖力の槍の一本、その流れ弾を、鬼は左腕一本で無造作に弾く。
「体の小さな吸血鬼はともかく、式神の方は何なんでしょうね」
 杯を手に持った天狗が、こぼれるぎりぎりまで注がれる酒に意識を集中させながら答える。
「本能か何かでしょうか」
「狐のかい? あたまに葉っぱでも乗せる気?」
「あるいは……とっとっと」
「おっと、貴重な酒をこぼしたら承知しないよ?」


「続けていくわよ!」
 式神の姿勢が整うのを待たず、レミリアは次々に仕掛ける。式神との間に十分に距離をとったところで両の手首を前で交差させる。妖気が集結、結晶化し、投げナイフの形をとって吸血鬼の両手に握られた。鋭い刃は満月の光のうち、長い波長の電磁波のみを反射して紅く光る。レミリアは後方に飛びながら両手を振るうように広げ、大量のナイフを放射状にばらまいた。刃渡り十五センチメートルの凶器は銀色の光跡を引きつつ、矢のような勢いで一直線に式神に襲いかかる。しかし藍は動かない。降り注ぐナイフの弾幕の正面に立ち、左手の盾と右手の手刀で、自分に当たる軌道の刃を全て叩き落とした。
「もうひとつ!」
 レミリアはぐっと体を縮めると、体の周囲に無数の光弾を召喚。それこそ目前に現れた満月のように、暗闇になれた式神の網膜を焼きにかかる。吸血鬼は弾かれたように体を広げ、同時に光弾は四方八方に撃ち出された。
「……っ」
 周囲が光に包まれる。光弾自体の動きは直線的だから軌道を読むのは簡単だが、弾自体が強力な光を放っているため距離感がつかみにくい。藍は避けず、仁王立ちしたまま、両手に展開した結界を使ってかき分けるように光弾を弾いた。
「……?」
 正面にあるはずの吸血鬼の妖気がおかしい。質が変わったように感じるが、測定誤差のぎりぎり範囲内とも言える。ただでさえ高速で飛来する光弾の奔流に囲まれ、完全に目くらましを食らった状態で、視覚情報だけでなく、吸血鬼の発する妖気も完全にジャミングされてしまっているのかもしれない。光弾が撃ち出される中心には確かに、彼女の気配がある。しかし。
 感覚神経のざわつきが自覚される。式神は思いきって、得られた観測結果を放棄した。状況モデルを再検討し、吸血鬼がとると想定される可能性を算出する。答えはすぐに出た。
「……!」
 飛来する光弾の対応を続けながら、藍は自身の周辺を探り出した。全感覚の二割を正面に残し、残りの八割を四方八方に張り巡らせる。特に死角になりやすい頭上、背後、足下に──
「ちょっとだけ、遅かったわね」


「しかし萃香さん、これでこぼすなと言うのは……」
 天狗は両手で杯を持ったまま、飛んでくるナイフ状の流れ弾を避けて体をひねる。右足をあげ、首を傾げた。そのたびに、避けた箇所を流れ弾が高速で飛来し飛び去っていった。
「なかなかに酷というか、いわゆるひとつのあるこーるはらすめんと、というやつではありませんか」
「ばーか、命の水に粗相するようなヤツにゃ神罰が下るよ」
 鬼は体に巻いた鎖をほどき、ぶんぶんと振り回していた。回転する鎖は流れてきた光弾を打ち砕き四散させる。
「まったく、絡み酒ならせめて酔っ払ったあとにして下さいよ」
「何か言ったかい?」
「いえいえ、何も。……おお怖い怖い」
 天狗は腰を跳ね上げ、左足を折りたたみながら、微かに波打つ杯に口をつけた。横を向いて、光弾を避けるついでにぐいと吞み干す。
「っはー、やっぱり、この一杯のために生きてますね」
「おーう、言うね」
 鬼は口を横に広げ、にかっと笑った。


 レミリアは藍のすぐ近くにいた。
 藍は結果から逆に現象を推論する。恐らく吸血鬼は目くらましのような弾幕の嵐にまぎれ、自身をコウモリに分解、光弾の射出地点にも数匹残しつつ、残りを気を隠したまま四散させ、今まさに藍の懐、すぐ右下の位置に集結し、もとの姿に実体化したのだろう。だがその考察は、この瞬間、間合いの奥深くに潜り込んだ悪魔に対しては何の役にも立たない。
「妖弧を依り代とする式神は、」
 レミリアは腰を折り、両腕をお腹に抱え込むようにして、深くお辞儀するように上半身を下げる。
「いったい何に祈るのかしら」
 瞬間、油を振りまいた枯れ草に点火したような勢いで、吸血鬼の周囲の妖気が高まった。圧縮された内向きの妖力が収まりきれずに外へ漏れ出し、炎のように立ち上って、その熱と陽炎で周囲を歪ませる。藍は即座に両腕を顔の前でそろえて閉じ、身を小さくした。
 直後。
 妖怪の山を背に、空中に一本の火柱が立ち上(のぼ)った。火山の噴火と言うよりは、巨大なガスバーナーのような勢いで妖気が吹き上がる。
 吸血鬼は両腕を抱えた姿勢のまま、身を反って火柱の中心にたたずんでいた。目の前には身を丸めた式神。妖気の奔流にさらされるが、閉じた両腕の奥にあるはずの表情は見えない。
 レミリアは一度目を閉じ、開くと同時に、抱えた両腕を左右一杯に広げた。それに呼応して、火柱は左右に枝を伸ばす。下方から吹き上がる妖気の流量は三倍になり、さらに勢いを増した。
 ──奇しくも、その火柱は十字架に見える。
 やがて奔流はその勢いを弱め、ふいにかき消える。
 あとには、両足をまっすぐそろえて伸ばし、両腕を左右に広げた姿勢の吸血鬼と、身を丸めた姿の式神が残される。式神は空中に漂いながら、力なく、微かにその姿勢を緩めた。
 吸血鬼はその姿をみて、僅かに目を細めた。そしてゆっくりと閉じる。右手を掲げると、その手に妖力を集めて固め、長い長い槍を形成させた。
 くるり、と一回、頭上で槍を回転させる。
 そして目を開く。目前には式神、その先には──
「……」
 その先にあるのは妖怪の山。
 そして、式神と山の間には、紫色の衣装に身を包んだ妖怪の姿。
「……」
 レミリアは半身になって左肩を突き出し、右手を引いて、槍の矛先を山のほう、つまり八雲紫の方へと向けた。
 紫は扇子で口元を隠した姿勢のまま動かない。その両目で、じっと吸血鬼を捕らえ続ける。
「……」
 レミリアは僅かにあごをあげ、肩をひいてから、一息に槍を投擲した。


「そういえばですね、萃香さん」
「なんでぃ」
 天狗は鬼の杯に酒を注ぎながら話しかける。
「さっき、三つとか四つとか言ってたじゃないですか」
「ん、そんなこと言ったっけ?」
「言いましたよ」
 ちょん、とひょうたんの口で杯のふちにふれる。鬼はその杯を顔のそばまで持って行って、ぐい、と一気にあおった。山の住人、特に強大な力を持つものは概ね酒にも強い。龍や仙人は言うに及ばず、河童や、もちろん天狗も鬼も例外ではない。
「ほら、紫(むらさき)妖怪もいい性格とか何とか」
「あーあー、あれね」
 鬼はひょい、と、天狗の手からひょうたんを取った。代わりに杯を天狗に持たせる。
「それがどうした?」
「あれ、四つ目が何か教えてもらえませんか」
 とくとく、と音を立てて、透明な液体が杯を満たしていく。その下で、朱色の杯の底に金で書かれた「雅」の文字が波打った。
「一つ目は言うまでもなく吸血鬼。彼女に匹敵する力が幻想郷にも存在すると知らしめること。二つ目は我々。一部始終に立ち会わせ、顛末を持ち帰らせて、必要以上に騒ぎを大きくしないようにすること」
 まあもしかしたら、今は山に居ない鬼の方々をこの場に呼んだのには、儀礼だけじゃない別の思惑もあったかも知れませんけどね。天狗はそう思うものの、口にはしなかった。
「うんうん、まあそうだね」
「まあここまでは表向きの理由。そうではない三つ目は」
 天狗はくいっ、と、一息で杯を吞み干す。それからゆっくりと口を開いた。
「あれですよね、九尾の式神」


 紅色の妖力が圧縮され固められた長槍は、一直線に紫めがけて飛翔し、
「……」
 目標を貫く、その途中で阻まれた。
「……まったく、」
 レミリアは槍を放った姿勢のまましばらく動きを止めていたが、やがてゆっくりと身を起こした。あきれたような表情で紫を見る。
「おどろくほど頑固ね、貴女の式神は」
 レミリアと紫の中間の位置。紅い槍は蒼白色の魔方陣に衝突し、小刻みに揺れていた。左の小手に展開した結界を盾のようにかざし、右腕を後ろから当てて、藍は吸血鬼の渾身の投擲、その衝撃を完全に受け止めていた。藍染めの白い衣装は随所が焦げ、破れ目ができ、のぞく肌にはあざや傷、火傷の跡がみえる。
「──……」
 本来彼女のような式神や妖精等、妖力でできた衣装や身体には、このような損傷は生じない。受けたダメージに応じて妖力が減り、体は薄れるか小さくなる。形状を維持できるだけの妖力が無くなれば消え、充填できれば再び現れる。
 だから藍の体にできた「傷」は、身体の受けた損害に応じて意図的に「表示」されたものに他ならない。八雲紫が式神に実装した、度を超したダメージを受けないための、式神本人が「痛みを知る」ための仕組みである。
「おまけに頑丈だわ」
 レミリアは見下ろすように、自身の放った紅の槍と、青白い魔方陣、そのさらに向こう側にいる式神を瞳に映した。恐らく内骨格が折れているだろう左腕は中央が青く染まり、さらにその表面を焼け焦げたような赤黒い色が覆っていて、結界で固めていてもその複雑なまだら模様が透けて見える。歯を食いしばり、まぶたは半分しか開いていない。しかしその奥にある瞳は──
「……悪いようにはしない、って言ったわよね」
 藍に視線を向けたまま、レミリアは少し大きめに声をあげる。
「言ってないけど、言ったことにしても良いわよ」
 視線を動かさずに、紫が答えた。
 それきり暫くの間、無言が場を支配する。
 レミリアは無造作に腕をふって、指を鳴らした。魔方陣とつばぜり合いをしていた槍は紅い粒子となって雲散霧消し、闇夜に溶ける。
 風音も、木々の葉擦れすらも聞こえない、本当の静寂が周囲を包んだ。
「見せて貰うわ」
 言いながらゆっくりと、吸血鬼は視線を、式神の主人へと動かす。その先で紫色の妖怪はぱちん、と手に持った扇子を閉じ、その奥に隠れていた表情を──不敵な笑みを表に出した。
「──ええ、楽しみにしてて」
 レミリアはしばらく紫を睨みつけ、それから不意に背を向けた。
 紫と藍、そして妖怪の山に。


「自分の式神に、実戦の経験を積ませる」
 天狗は言って、くいっ、と杯を一気に干した。
「九尾の狐に匹敵する力量の持ち主に、何の後腐れもなく全力でぶつかれるなんて、そうそうある機会じゃないですからね」
「そこまで分かってて、なんでもう一つが分からないんだい?」
 杯を渡そうとする天狗の手を、ひょうたんの口で押しとどめる。そのまま鬼は、からの杯を酒で満たした。
「や、お恥ずかしい。そこが小生の限界というところでして」
「ブン屋は目聡い。広く捕らえて鋭く切り込む。だけど、深く穿つところまではなかなか行けないみたいだね。それも性(さが)か」
「事実の収集に重きを置いてるのは確かです」
 天狗は杯をからにする、と同時に、鬼の手からひょうたんを取った。代わりに杯を差し出す。
「分析は他の誰かの仕事です。我々の役割は事実を漏らさず拾い、その誰かに伝え、分析された結果をまた広く世に知らしめること」
 鬼の手に持たせた杯に、天狗はなみなみと酒を注いだ。鬼は杯の表面に現れる波紋を見つめる。
「その割りには、ずいぶんと妄想記事が多いみたいだけど?」
「その言われようは心外です」
「さて、そうこうしているうちに、」
 鬼は杯を一息で干すと、首を左右に振ってコキコキと関節をならした。
「どうやらお開きのようだ。こっちもお愛想としますかね」
「そのようですね。……って、だからその前に」
 天狗は鬼にひょうたんを手渡しつつ、
「お願いですから、その、鬼の目から見た『四つ目』とやらを教えて下さいよ」
「あー? ああ、そうだなぁ。まあその前に」
 ひょうたんの口に栓をしつつ答える。
「大将は単に、式神に経験を積ませただけじゃないだろうよ。まあこれも、経験っちゃあ経験だが」
「どういうことです?」
 天狗は言いつつ、鬼の言ったことを思い返す。彼女が気付いた時の前後で、どんな会話が行われ、鬼は何とつぶやいたか。
「……ああ、戦い方だけではなく、戦うこと、そのものの経験を積ませた、ということですか?」
「おう、分かってるじゃないか」
 鬼はぶんぶんと腕を回す。
「さっき『そうそうある機会じゃない』っていったけど、あの式神は生まれた時から最高ランクに近い能力をもってるんだ。これまで『思う存分喧嘩をする』という機会は無かっただろうね。その能力の高さ故に」
「ふむ。確かに、ただ事務的に相手を攻撃し相手の自由を奪うことを『腕試し』とは言いませんね」
「そういうこと」
 鬼は天狗に向かって、にこっと笑った。
 彼女ら妖怪にとって、戦いとは喧嘩、つまり「腕試し」に他ならない。
「今の幻想郷は喧嘩が減って、言ってしまえば平和で何よりなんだけど、思いっきり相手にぶつかる、相手の意図や手の内を読む、相手に勝つために自身を磨く、そんな機会までなくなっちまった。それすなわち、妖怪の存在意義の否定さね。事実、外の世界からひとりふたりやってきただけで、このざまなわけだからね」
「それはつまり、腕試しの経験が必要なのは式神に限らない話だ、と?」
「そうさ」
 鬼は両手を上にやって、うーん、と伸びをした。
「双方が互角にぶつかれてこそ、お互いを尊敬することができるってもんだ。あの大将はここ、生き死にに関わる争いが取っ払われた幻想郷に、代わりに『腕試し』を据えようとしている。そんなふうに思えるね」
「それが、四つ目の目的ですか」
 記者モードに入った天狗をちらりと見て、鬼はにやりと笑う。
 互角だからこそ信頼できるというのは、何も腕力だけの話じゃない。頭の回転もそうだ。この鴉天狗は、鬼の自分と十分渡り合える頭の回転の速さを持っている。だからこそ、取材にも答えてやろうと思う。
「今のは三つ目のおまけさ。あの大将にとっちゃ、ここ幻想郷は自分の式神みたいなもんだからね。四つ目は大したことじゃない」
 鬼は紫の方をみて、大きく手を上げた。手にはひょうたんを持ったまま。五十メートル以上は離れているが、それでも紫はすぐに気づき、優雅に膝を折って会釈する。
「そうさね、大将も妖怪だってことさ」
「……なるほど」
 妖怪は腕試しを楽しむもの。神に匹敵する力を持つ八雲紫といえど、その例外ではない。つまりはそういうことだろう。
 もっとも、腕試しが好きな神様も山ほどいるわけだが。
 であれば、と天狗は──射命丸文(しゃめいまる あや)は、その黒髪に包まれた頭脳の中で考えを巡らせる。
 ひとつ。八雲紫は今後、より「腕試し」を手軽に行えるような提案を行うか、あるいはそういった提案がなされるよう手を回すだろう。
 そしてそれはこの幻想郷に広く浸透するものでなくてはならず、当然人間にも受け入れられるものでなければならない。それが何かは分からないが、今回の騒ぎはきっと、その方法を周知することの後押しになるはずだ。
 そしてもうひとつ。
 文はじっと鬼を──伊吹萃香(いぶき すいか)を見つめた。萃香はそれに気付いて、なんだい、と首を傾げる。
「いいえ、何も。ただ──」
 天狗は目を閉じ、肩をすくめた。──鬼も妖怪。もし幻想郷で、腕試しが日常化したら……
 ただでさえ、ここには宴会好きがそろっているのだ。宴会と腕試しが日常の場所に、鬼が寄ってこないはずがあるだろうか。
「これからしばらく、新聞のネタには困らなさそうだな、と思いましてね」
「景気の良い話だ」
 萃香はにかっと笑う。つられて、文も笑みを浮かべた。


「待たせたわね、咲夜」
 レミリアはふわりと空中を移動し、咲夜の近くまで来ると、視線を動かさずにそう声をかけた。
「今日はもう帰るわ」
「分かりましたわ、お嬢様」
 エプロンドレス姿のメイド長は主人に一礼し、一歩下がって道を空けた。レミリアが目の前を通り過ぎるまでその姿勢を維持する。
「お疲れ様でした」
「……ええ、少し、疲れたわね」
 咲夜は驚いて顔をあげた。レミリアはそのまま歩みを止めず、満月を背にして空中を進み続ける。
「せっかくメニューを考えてもらったけど、少し軽めのものにしてちょうだい」
「……わかりました」
 咲夜は頭の中で、ビーフシチューをミネストローネスープに変更した。血液にはなるべくコレステロール値の低そうなものを選ぼう……
 いや待て。そうではなくて。
 あのレミリアが。お嬢様が。
 五百年しか生きていない紅い悪魔が。
 この満月の夜に。
 「疲れた」等と弱音を吐くことがあるとは、夢にも思っていなかったのだ。
 咲夜は一歩下がった位置で首だけ回して、満月の光を受けるレミリアの背中を見る。
 それからゆっくりと、反対へと巡らせた。
 来たときと比べずいぶんと高度を下げた満月の方を。
 そしてその光に照らされ、輪郭を闇に浮かび上がらせている妖怪の山を。
 その山の手前にいる、妖怪とその式神を。
「何をしてるの?」
「はい、お嬢様」
 レミリアの問いに、咲夜は振り向かずに返事をする。
「今参ります」


「帰るわよ、藍」
 紫は自分の式神に声をかけた。藍はずっとレミリアの方を──従者の近くへと引き上げる吸血鬼の方を警戒していたが、主人の声を聞いて振り返る。
「ご苦労様」
「あ……」
 そして驚く。主人は思ったよりも近くに居た。
「ありがとうございます。でも……」
 吸血鬼を圧倒し封殺する、ということが目的だったはずだ。とうてい、その目的を果たせたとは思えない。藍は紫を直視できず、目を伏せて視線を落とす。
 紫はそんな藍の表情を見て、息をついた。
「最初に設定した戦術目標は何か、言ってご覧なさい」
「あの吸血鬼を、山へ入れないことです」
「その通り」
 間髪おかずに返ってきた返事に、紫は頷いた。
「ちゃんと達成できているじゃないの」
「ですが……」
「藍に足りないのは」
 突如、左腕の近くに気配を感じて、藍はびっくりして顔を上げた。紫がすぐ近くにいる。紫は藍の左腕に手をかざしていた。
「……ふむ、完全には折れてないわね。これなら、満月のいまなら三晩くらいで治るか」
 紫はつぶやきながら、扇子で近くの空間を裂いた。中から添え木になりそうな短い棒と、細長く裂いた白い布を取り出す。
「念のため、ちょっと固定しておきましょうか」
「いえそんな、だ、大丈夫で……」
「反論は許可しません。ちょっと、左腕の感覚神経を遮断しておきなさい」
 うろたえる藍にぴしゃりと言って、紫は添え木を式神の腕に当て、包帯で縛り付けて固定し出す。
「……藍に足りないのは、ひとつは思考の足の長さね。まだ直接的な情報だけで、全てを分かった気になっている。まったく無関係に思えるような情報と組み合わせると、まったく別の意味が見えてくるもの。その事を知識ではなく、感覚として身につけないと」
「……はい」
 藍はうなずく。包帯が巻かれるたびに左腕に激痛が走るが、それを表に出さないように最大限の努力を払っていた。……式神は、「左腕の感覚神経を遮断」という主人の言いつけを守らなかった。
「それからもうひとつは、本能という概念について理解を深めること。これも、知識ではなかなか理解できないでしょうね」
「分かりました」
 式神はそう返事したが、実はよく分かっていなかった。これまでの話と「本能」がどう結びつくのか理解できない。しかし、その検討は後回しにすることにした。今は左腕の痛みに耐えることと、その左腕に包帯を巻いてくれている主人の気配に意識を集中する。
 キシッ!
 突如自分の耳元で、金属のこすれる甲高い音がした。はっとして振り向く。目の前には丸い円盤──確か外の世界のもので、交通標識と言われるものだ。そしてその、薄いとはいえ鉄でできた円盤に、一本のナイフが突き刺さっていた。
「──!」
 さらに後ろを振り返る。レミリアが去っていった方向、百メートルは離れた場所、そこに立つ従者。
 青いエプロンドレスに身を包んだ人間の少女が半身の姿勢で、まっすぐにこちらを睨んでいた。が、すぐに頭を下げて一礼し、それから彼女の主人の後を追う。
「いついかなる時も、周囲の情報収集を怠らないこと。『藍に足りないものリスト』に、これも付け加えようかしら。はい終わり」
 紫は藍の左腕に添え木を固定し終わると、顔を上げながら面白そうに言った。銀色に光るナイフは交通標識に刺さったまま、空間の裂け目に──スキマに飲み込まれて消える。
 藍は痛みも忘れて、ずっとふたりの──吸血鬼とその従者の後ろ姿を見つめていた。
「あらあら、藍ちゃん派手にやられたわねぇ」
「あら幽々子(ゆゆこ)」
 後ろから声をかけられ、紫は振り向く。青い装束の亡霊がゆっくりと、音もなく近づいてきていた。その後には、腰に妖刀を二本差した少女と、白い霊魂が続く。
「後から白玉楼(はくぎょくろう)へ行くって言っておいたじゃない、どうしたの?」
「待ちくたびれちゃったのよ。少しくらい見物できるかなと思ったのだけど、」
 亡霊は頬に指を当てて、小首を傾げた。
「鬼も天狗も帰っちゃったのね。もう少し早く来るべきだったわ〜。妖夢(ようむ)が準備に手間取るから」
「私は、おとなしく待ってましょうと言ったんです!」
 銀髪をおかっぱにした少女は、少し怒ったように声を荒げて腕を組んだ。肘が刀の柄に当たって鞘がなる。その肩の上で、ふわふわと浮いている霊魂がうなずくように上下に揺れた。
「見に来ないように、と、八雲様からあれだけ言われてたじゃないですか」
「だから妖夢は待っててって言ったのに。わたし一人で行ってくるからって」
「幽々子様お一人で行かせられるわけないじゃないですか!」
「大丈夫よ〜、妖夢は心配性なんだから」
「幽々子様じゃなくて、周囲の方々が心配なんです!」
「あらあら照れちゃって。妖夢はツンデレさんね」
「幽々子は、わざわざ見た目が若い子を寄越すよう天狗と鬼の総大将に話を通した私の苦労をなんだと思ってるのかしら」
 紫はため息をついた。
「あまり見物人を増やして、吸血鬼を刺激したくなかったのよね。……どちらかというと、その従者を、かしら」
「従者というと、あのメイド姿の?」
「そう、あの人間よ」
 言いながら、紫は腰に両手をあてる。
「あの従者はまだ、ここや私たち、というか妖怪そのものへの理解が浅いし。援軍と誤解されて、変に手出しされたら話がこじれるところだったわ」
「それなら大丈夫よ〜、見物人に、見た目が若くて無力なわたしが増えたくらいで」
「いくら妖怪への理解が浅いといっても、あの人間は幽々子を『無力』だなんて思うほど無垢ではないわよ?」
「あらあら、ずいぶんと詳しいのね」
 亡霊は上目遣いに、紫の顔をのぞき込む。
「またのぞき見してたの?」
「まあね」
 それがどうした、とでも言いたげな表情で紫はそう答えて、それから微笑んで肩を竦めた。亡霊は楽しそうにくすくすと笑う。
「ところで、橙(ちぇん)ちゃんは?」
「留守番させてるわ。変に騒ぎ立てて話をこじらせられると困るから」
「まあ、」
 亡霊はちら、と、式神のほうへ視線を移した。
「きっと正解ね。藍ちゃんのこの様子をみたら、大変なことになりそうだわ」
「ええ、同感」
「紫が恨まれちゃうわね」
「それは勘弁して欲しいわ」
 紫はため息をついて、それから藍の方を見る。
 藍はずっと、吸血鬼とその従者が飛び去っていった方向を見つめていた。
「どう?」
 紫は自分の式神に声をかける。
「藍にはまだまだ、知るべきことがいっぱいあるでしょう?」
「……はい」
 藍は視線を動かさないまま、右手で左手首をさすり、それからゆっくりと言葉を紡いだ。
「楽しみです」




「答えは出たかしら?」
 藍が一通りの顛末を復習し終えたタイミング──時間にして数秒程度──で、紫は式神に問いかけた。
 ……やっぱり、自分の思考をモニターする仕掛けがあるのかも知れない。藍は一瞬だけそう考えて、それから申し訳なさそうに首を振った。
「すいません」
「そう。……それじゃあヒントをあげるわ」
 藍は顔を上げて、まじまじと紫の顔を見た。耳を疑ったからだ。
「ん、どうしたの?」
「……あ、いえ」
 藍は慌てて、神妙な表情を作り直した。小声で、なんでもないです、と答える。紫は眉をひそめた。
「変な子ね。まあいいわ、ヒントは、」
 紫は再度、空間の切れ目(スキマ)から見える紅魔館に目を移した。
「あの吸血鬼が今晩動くのはね、明日の晩に備えてのことなの」
 明日──満月。
 なるほど、それならば話は理解しやすい。本格的に騒動を起こすのは明日で、今晩はその準備ということか。
 だがそうであれば、準備にまる一日かかるということになる。いったい何を起こすつもりだろう。
 そして何より、吸血鬼異変から今日まで満月の晩は何度もあったのに、紫様が「今晩だ」と断じる根拠が分からない。
 ヒントにすら出さないということは、紫様しか知らない事象で今回の件に関係するものは無いということだ。そういう無茶振りをして喜ぶ方ではない。ということは、当然自分が知っていること、あるいは知っていて然るべき事だけで推測できる話のはずだ。
 まったく、自分は紫様の足下どころか、小指の先にすら及ばないな。藍は心底自分に落胆した。しかしその、狐耳を垂れた式神の様子を見て、紫は楽しそうに微笑む。
「ま、見ているといいわ。もうじきだから」
「……紫様」
「何?」
 藍は、次の言葉を口にして良いものかどうか悩んだ。通常であれば絶対表に出さない言葉だが、藍はあえて発声してみる。
「……紫様、楽しそうですね」
 言った直後に後悔する。笑っているのだから当たり前のこと、あえて言う必要などどこにもない。
 案の定、紫は笑い顔をやめ、目を丸く見開いた。
 ああ、自分の軽率な言動で、紫様の気分を害してしまった。藍はますます落ち込み、どう謝れば良いかを考え──
「分かる? ありがとう、そうなのよー」
 藍は耳を疑った。
「もうね、嬉しくって仕方がないの!」
 紫様が笑っている。破顔と言っても良い。先程とは比べものにならないほどの満面の笑みを携え、弾むようなと比喩表現できる状態で。彼女は目尻を下げ、高揚した頬に両手をあてて、再び視線を紅魔館へと向けた。
「藍にわざわざ、外の世界までお遣いに行って貰った甲斐があったというものよ。博麗神社の当代もちゃんと役割を果たしたし。これでまた、幻想郷に花が咲くわ」
「は、はあ……」
 式神は、自分の処理能力の限界をまじまじと実感した。まったくもって訳が分からない。
 が、藍の感覚神経に何かが引っかかった。紫様の態度、いや、言葉に? いま紫様は何と言った?
「当代……博麗神社……?」
 声に出すことでスイッチが入った。吸血鬼が幻想郷に現れてから今日までを一直線に結んだと仮定すると、それとは別に、吸血鬼騒動の晩に枝分かれした事象がある。いま、藍の脳裏にその線がはっきりと浮かび上がった。
「……命名決闘法案……!」
 そうだ。自分はこの目で、紫様が博麗神社の巫女に草案を渡すところを見ていたではないか。失念していた訳ではないが完全に見落としていた。枝分かれし、それぞれ別の方向に伸びていたとばかり思っていた線が、いつの間にか交差する軌道に変わっていたとは。
 博麗神社の当代が草案を下地に定めた命名決闘法案、いわゆるスペルカードルールを公開したのは先々月。大妖怪クラスは軒並み、子供の遊びと歯牙にもかけなかった。しかし最近は少しずつ、特に妖精や子供の妖怪を中心に広まりを見せている。
 そして紅魔館の周辺には妖精が多い。紅魔館の門番は妖精とよく遊んでいる。
 その門番を通じて、紅魔館の主は既にスペルカードルールに接触していた。明日は、それから最初の満月だ。
「……いくら大妖怪クラスといえど、あの吸血鬼の性格を考えれば……」
 あの吸血鬼なら、『子供の遊び』に本気で乗り出す可能性は非常に高い。
 言われてみれば当然のことだ。
 勢いを得た弾み車のように、藍の思考回路がフル回転を始めた。この可能性に気付かなかった原因は、自分の中に組み上げた状況モデルの構造に起因する。九尾の式神はそう判断し、状況モデルの再構築を実行した。枝分かれした事象が独立して成長する樹木型モデルから、分かれた事象が複雑に絡み合う蔦型へと組み替える。当然計算量は幾何級数的に膨れあがり、既存の数値空間はあっというまに飽和した。藍は即座に対策を検討。収集した事実と推測結果を分離分類し、確度の低い事象をいったん破棄する方策を採用する。同時に断片化した情報空間を整頓し、記憶情報の持ち方と格納方法を最適化。関連性の強弱に従って情報空間をブロックに区切り、ブロック単位で相関を評価する近似空間を別途構築して──……
「明るい月夜ほど、脇道は見えないものよね」
 紫は紅魔館を見つめたまま、若干目を細めた。
 藍は気付いているだろうか、と紫は一瞬だけ思索した。即座に結論を得る。自分が持つモデルに問い合わせを投げたことで、即座に結論が得られたのだ。
 確かに藍は、彼女の可愛い式神は、一度分岐した事象は巡り巡って再び相まみえる、という可能性に気付いた。これにより、藍の思考平面は広がり密度を高めただろう。
 ではもうひとつ。高さ方向はどうか?
 あらゆる事象について、それが起きうる可能性はゼロではない。それが本当に起きるかどうかは、個別に確率を算出する必要がある。それが思考平面に対する、閾値を超えるか否かの「高さ」に対する考察能力だ。
 なるほど、藍の思考空間における状況モデルは複雑さを増し、ほぼ現実をエミュレート出来るだけの規模に達しつつある。
 だが、将来をシミュレートするためには外せない、しかしながら、現象を表層から見ていただけでは決して得ることが出来ない要素(パラメータ)がある。
 恐らく今は、藍はその要素の存在に気付いてはいないだろう。例え気付いていたとしても、どうモデルに反映させるべきか判断できていないに違いない。
 しかしながらその要素を盛り込まないままでは、例えば今回の事象の予測は非常に曖昧になる。「その可能性は高い」で終わるだろう。
 それでよい、と彼女は思う。
 今はまだそれでもよい。今後数十年、数百年かけて学べば良いことだ。
 しかしその一方で、その要素の存在は過去に何度か、あの「吸血鬼異変」の晩にも指摘してきたことでもある。今回の事象が起きた後、振り返り検分することで、あるいは得心できるかも知れない。もし藍がそう出来たなら、ほめてやろうと思う。
 そして、もう一つ。
 藍には教えておかなければならないことがある。
「……ひとつだけ、よろしいでしょうか」
 藍は再構築作業を継続しつつ、処理能力の一部を独立励起させて、主人との会話に割り振った。その重要度は、あらゆるタスクに優先する。
「どこからが、紫様のシナリオなのですか?」
「藍、覚えておいてね」
 紫は、自分の式神に片目をつぶって見せた。
「世界も式神も、術者の思ったとおりには動かないの。──仕掛けたとおりに動くのよ」


(続く)