(続き)

「……」
 パチュリー・ノーレッジは、手に取ったティーカップを口のそばまで持って行って、しかし口をつけずにまたデスクの上に戻した。かち、と、カップとソーサーがぶつかる音が微かにする。
 とっくに、カップの中身は空になっていた。
「あれ、空っぽですか?」
 大きなマホガニー製のデスクを挟んで、悪魔族の少女がパチェリーに声をかける。
「お代わり貰ってきましょうか」
「うーん」
 パチュリーは結んだこぶしの人差し指をあごにあて、上目遣いに天井を仰ぎ見る。
 魔法使いと、悪魔族の少女。薄暗い照明の部屋の中で、ふたりは分厚い本の山に囲まれていた。
 もっとも、ここではそれが普通のことである。
 ここ、つまり、紅魔館内に設けられた巨大な図書室──その規模からすれば、むしろ併設された「図書館」というほうが正しい──の内側に整然と並ぶ本棚と、そこへ納まる日を待つ古い古い本たち。いくら妖精たちの手を借りているとはいえ、この図書館の館長であるパチュリーと、司書を勤める悪魔族の少女の二人だけでは、作業が終わる日は永遠に来ないと思われた。
 そもそも「妖精たちの手」というものは、猫の手よりも当てにならないのだが。
「やっぱり、止めておくわ」
 少し考えてから、彼女はそう答えた。
「もうすぐ寝ようと思ってたし。それでも、咲夜が来たら貰おうかとも思ってたんだけどね」
「そういえば、今日は遅いですね」
 メイド長は毎朝、寝る前には紅魔館中を見て回る。ここ図書館も例外ではない。
 薄紫色の館長は悪魔族の司書に、そうねぇ、と答えながら、手に持った本に再び目を落とした。一抱えありそうな大きな古い本の、古くて擦れかけた活字を追う作業に戻る。
「多分、レミィの病気が伝染(うつ)ったのね」
 もちろん、「病気」というのは比喩である。
「ええっ、お嬢様お病気なんですか!?」
 しかし悪魔族には通用しなかったのか、少女はびっくりして顔を上げた。赤茶色の長髪がゆれる。
「そうよ。つける薬が無い系のね」
 ぺら、とページをめくりながら、それはまた別の話だったかなと考えた。が、
「ええええ!?」
 ……まあいいわ、とパチュリーは、司書の裏返った声を聞きながら思い直す。この子にとって大差はない。はなから話が通じてない的な意味で。
「どうしよう、どうしましょう、そんな深刻なお病気に……! お嬢様が倒れられたらいったいどうすれば……」
「あなたが何かをどうにかする必要があるの?」
 はた、と、悪魔族の少女はそれを聞いてうろたえるのを止めた。
「あ、そう言われればそうですね」
「……」
 考えてからうろたえなさい。そう言うべきか、パチュリーは少し悩んだ。もっとも、過去に何度か実際に言ったことがあるのだけど。
「でも、お嬢様にはお世話になっているのですから、やっぱり心配ですよぅ」
 悪魔族にも、比喩とか冗談という概念はあるはずなんだけどな……
 ひとかけらも顔に出すことなく、魔法使いは心の中でつぶやいた。この悪魔族の少女は、少々天然っぽいところがある。
「大丈夫よ、ほっとけば治るわ」
「そんなこと言って、油断が一番あぶないんですよ!」
「……」
「きっと咲夜様はそれで、レミリア様のお世話をされていたのね。でもそうしているうちに咲夜様にも……」
 冗談を説明する機会をうかがっているうちに、眠さも手伝って、パチュリーはだんだんと面倒になってきた。
「レミィには咲夜がついてるし、咲夜は自分の面倒はきっちり自分でみれる子よ」
 ぱたん、と魔法使いは本を閉じる。
「心配しなくても大丈夫」
「……そうですね。私も、お二人を信頼することにします」
 そう言って、悪魔族の少女はレミリアの部屋がある方向をみた。その様子を伺いながら、やれやれ、と魔法使いは椅子から降り、うーんとのびをする。
「さて、そろそろ寝るわ。あなたも伝染されないよう、しっかり寝ときなさい」
 はい! と、悪魔族の少女は元気よく返事をした。
「任せてください、体力には自信があります!」
「……それじゃ、おやすみ」
 おやすみなさーい、という司書の声を背中で聞きながら、館長は寝台のある奥へと引っ込んだ。
 ……まじめなよい子なんだけどなぁ。
 とはいえ、まじめな良い悪魔、というのもどうなんだろう、などと、寝所への道すがら考える。正直彼女のなかで「悪魔」っぽいところといえば、先の尖ったしっぽと、背中から生える(ついでに側頭部からも生えている)コウモリのような翼だけだと思う。
「それにしたって、レミィのよりずいぶんと小ぶりなのよねぇ」
 これでは、どっちが本当の「悪魔」なのか分からない。
 多少は自覚させたほうが良いか、と思って、最初に契約した時から名前ではなく「小悪魔」と呼んでいたが、効果のほどは全く見られない。しかも今ではそれがあだ名として定着してしまい、パチュリー以外からも「小悪魔」あるいは親しみを込めて「こあ」等と呼ばれている始末である。
 本人も全く気にしていないようで、そればかりかむしろ気に入っているようにさえ見えた。
「逆効果だったかなぁ」
 そんなことを言っても、今となっては後の祭りだが。
「でも、まじめ、と言えば……」
 咲夜もそうだ。
 彼女は出会った当初から、世の中を斜に見ている気色があった。でも根は本当にまっすぐで、おそらくは、それを隠すためにあえてポーズをつけているのだろう。パチュリーにはそのように見えていた。
「ま、レミィも美鈴もある意味まじめなんだけど。フランはまじめとか不真面目とか以前の状態だし……」
 ということは、
「不真面目なのはわたしだけか」
 いつの間にかベッドの前にいた。綺麗にメイクされた掛け布団の下に潜り込む。──もちろん、少し前にメイド長自らメイクしてくれたものだ。
 ふぅ、と深く息を吐いて目を閉じる。
「……」
 咲夜のことを考えていたせいだろうか。パチュリーは、初めて彼女と出会った時のことを思い出していた。




 ギィィン、という、甲高くも鈍い響きを伴った、耳障りな音が周囲にばらまかれる。
「……え?」
 切っ先が触れた点を中心に波紋のような金色の光の輪が垂直に広がり、銀髪の少女を包んだ。紅い槍はしばらく小刻みに揺れたあと、光の粒子に分解され消える。
「そんなのなくても、ちゃんと寸前で止めたわよ」
 赤い服を着た女の子が腕を組んで、ふてくされたような抗議の声をあげた。背後の魔法陣はゆっくりと霧散してゆく。
「念のため。レミィはよくドジるから」
「!?」
 彼女は慌てて周囲を見回した。銀色の髪の毛が揺れて光を振りまく。今の今までまったく、自分と吸血鬼以外の気配に気付いていなかった。
「そ、そんなことないわ! パチェ、今まで私がいつドジったっていうの」
「その子と戦っているあいだ、こっそり何度も失敗してるでしょ。誤魔化してはいたようだけど」
 正面。ようやく気配の所在に気付いて、銀髪の少女は目を凝らした。暗いからかその姿は見えないが、力強い吸血鬼とは全く逆の、か細い、しかし芯の強い静かな声が、レミリアの背後から響いてくる。
「今のだって、私はギリギリのところに結界を張ったのよ。レミィの槍は、どうしてそれにぶつかってるの?」
「その二ミリだけ先で止めるつもりだったの!」
「はいはい。でも、」
 少しだけ間が開く。
「もう打ち止め、というのは、どうやら本当だったみたいね」
「……」
 今ひとつ、状況が飲み込めない。
 が、取り敢えず、宙吊りのまま串刺しにされることは無くなったようだ。
「それで、どうなのよ?」
「多分、間違いないと思う」
「どっち」
「本人に聞くのが一番ね。……貴方」
 闇の一点、声が聞こえてくる辺りがぼぅっと明るくなった。立ち並ぶ石柱の上、劇場の二階席のように、大広間の左右に設えられた通路のような空間に。
 明かりの中心には、薄い紫の屋内着を着た少女が居た。
 着物とお揃いの薄い紫色の長髪に、大きな三日月のアクセサリがついたナイトキャップを被せている。小脇に抱えた分厚いものは本だろうか。……あんなに大きな本を見たことは無かったから、違うかも知れないが。
 知り合いの魔法使い。最初にレミリアが言っていたのは、おそらく彼女のことなのだろう。
「……何よ」
 唐突に声をかけられ、うろたえつつ答える。パチェ、と呼ばれた少女は何か言おうとして、思いとどまる。うーんと眉をひそめた。
「遠いと、声を出すのも大変ね」
 軽く小首を傾げてから、薄紫色の少女はふわりと浮かび上がった。まるで幽霊のような滑らかさで宙を漂い、レミリアの隣で止まる。
「先に自己紹介しようかしら。私はパチュリー。パチュリー・ノーレッジ。ここの図書館を管理してるわ」
 この館に図書館なんてものがあったのか。それすら初耳だった。
 ……ということは、やっぱりアレは本らしい。
「貴方の名前は?」
「……」
 少女は鎖で両手をつながれた姿勢のまま、じっ、とパチュリーを睨み返す。
「その問いかけは無駄よ」
 二人の様子をみて、レミリアが楽しそうに言った。
「化け物に名前を教えるなんて自殺行為、骨の髄まで支配されてしまう。村の子供だって知ってるわ」
「そうね。じゃあ今度、レミィが居ないところで聞くことにする」
 誰が化け物よ! という吸血鬼の抗議を受け流して、パチュリーは再び銀髪の少女に向き直る。
「それじゃあ単刀直入に聞くわね。あなたの能力は時間を自由に止めること。違う?」
「……」
 言葉につまる。どう返答すべきだろう。
「まあ、」
 薄紫色の少女は、少しだけ待ってから言葉を続けた。
「好きな位置に瞬時に移動できる能力である可能性も、まだ完全には否定できないけど。でも、見せてもらった現象をシンプルに捉えるなら、止まった時間の中で貴方だけは動ける能力、の方が合理的よね」
「だいたい空間を瞬間移動できるんなら、いくら鎖でつないでも簡単に抜け出せるはず」
 話のあとを、レミリアが得意げに引き継ぐ。
「それが出来ないなら、何らかの制限があるか、そもそも瞬間移動ではない別の能力かだわ」
「ちなみに」
 さらにパチュリーが言葉を継いだ。
「その話を最初にしたのは私ね。レミィが自分で考えたわけじゃないわ」
「ちょ、パチェ!」
 全くの緊張感のなさに、銀髪の少女は諦め、大きくため息をついた。
「まあ、横から見られてたんじゃあバレバレよね」
 上手く隠したつもりではあったが、あの魔法使いは見事洞察して見せただけでなく、ちゃんと裏をとるためにこの状況を作り上げたわけだ。そして自分はまんまとその罠にはまったことになる。これでもう完全に、手札はオープンになった。
「そのとおり。私は時間を止めて、その中で動きまわることが出来る。それで満足?」
「うん。ありがと」
 薄紫色の少女は吸血鬼に向かって、小さくうなずいた。レミリアはふん、と鼻を鳴らす。
「……?」
 銀髪の少女を拘束していた鎖が急に崩れた。光の粒子に帰っていく。
「どういうこと」
「そんな格好じゃ、話なんか出来ないでしょ?」
「……別に、話すことなんかないわ」
 手首をさすりながら、彼女は鉛色の瞳を、紅い吸血鬼と薄紫の魔法使いに向ける。
「私の目的はそこの吸血鬼の討伐。それ以外のことをするつもりはないし、それが出来ないなら逃げ帰るだけよ」
「それは目的じゃなくて、手段でしょう?」
「……」
 さする手を止めて、彼女はゆっくりと銀髪の頭を動かした。腕を組んだ吸血鬼を真っ直ぐ見る。
「何が言いたいの」
「何も」
 ぷいっと吸血鬼は横を向いた。
「別に、言いたいことなんか無いわ」
「言いたくないことは沢山あるってことね」
 薄紫色の魔法使いは、握ったこぶしの人差し指、第二関節を顎に当てて、くすりと笑う。が、レミリアに睨まれて肩を竦めた。
「ま、ともかく、貴方の考えは分かったけど……それでどうする、帰るの?」
 パチュリーが歩み出て、銀髪の少女に近づいた。
「いったい何処に?」


 どこまでお見通しなのだろうか。
「……」
 彼女は眉間にしわを寄せて訝しげな表情を作り、紅い吸血鬼と薄紫の魔法使いを交互に見た。
 片手を腰に当て、呆れたような(そう思える)表情の吸血鬼と、こっちをまっすぐ見ているものの眠たそうな目の(そのように見える)魔法使い。
 銀髪の少女は、はあ、と大きくため息をついた。
「心配してくれてありがと。お返しに、ひとつだけこっちも心配してあげる」
 言いながら、私は何しにきたんだっけ、と自問する。でもそれを表情には出さずに腕を組む。こころもち、胸は反り気味に。
「もし貴方たちが面倒ごとに目がないなら、ここに居続けるといいわ」
 少しだけ言葉を切った。──吸血鬼も魔法使いも、表情は変わらない。
「そうでないなら、覚えておいて。早くてひと月後、遅くとも半年以内には──」
「ぱぁーちゅーりぃーぃい?」
 唐突に、彼女のセリフが遮られた。語尾に不満そうな感情の色。そんな声を出したのは、目の前の吸血鬼でも、もちろん名を呼ばれた魔法使いでもない。
「お話まだ終わらないのー?」
 多少くぐもった、遠くから聞こえるその声の質は、どちらかと言えばレミリアに似ているだろうか。彼女を少し舌っ足らずにしたようなしゃべり声である。
 その声を聞いて、レミリアは片手を額にあててうつむいた。上目づかいにパチュリーを見る。薄紫の魔法使いは少しだけ肩をすくめて、肩越しに後ろを振り返った。
「もうちょっとで終わるわー。あと少しだけ──」
「もー待つのやだーあっ」
 ぱきっ、と乾いた音がして、いきなり空間にひびが入った。
「ちょっ……!」
 最初にパチュリーが現れたあたりに、稲妻のようなひび割れが現れる。ひび割れは何度か広がったり縮んだりを繰り返したが、ついに耐えきれなくなったのか、薄いガラスが割れるような音とともに空間が弾け飛んだ。
 その場に現れたのは、両手両足を大の字に広げた、白いブラウスに赤いジャンパースカートの女の子。……ただし、背中に奇妙な羽根を持つ。
「もう……おとなしく出来るって言ったでしょう?」
「もう飽きた! パチュリーもお姉様も、お話ながいんだもん」
 小柄なレミリアよりさらに一回り小さい体に、シャンパンゴールドの髪。「お姉様」ということは、彼女はレミリアの妹なのだろう。それにしては、背中に備えた羽根は全く吸血鬼らしくない。
 ……というか。銀髪の少女はあっけにとられた。化け物退治の経験はそれなりに積んできたつもりだったが、こんなに天真爛漫な妖気は初めてみたのだ。話を遮られたことなどとっくに意識の外だった。
「お姉様ばっかり遊んで、ずるい」
 その、レミリアの妹らしき天真爛漫な妖気の持ち主は、吸血鬼らしからぬ羽根を広げてふわりと浮いた。細く長い木の枝に七色のクリスタルを飾り付けたような、いったい羽根として機能するのか、いやそもそも羽根なのかどうかすら分からないものを羽ばたかせながら、緩やかな放物線軌道を描いてレミリアのもとにやってくる。
 そしてまじまじと、銀髪の少女を観察しだした。
「ねえお姉様、これが人間?」
「フラン、初対面の人間を『これ』呼ばわりしてはだめでしょ?」
 年長者らしく、レミリアはびしっと指摘する。
「でも、ケーキの形でもないし、ティーカップにも入ってないよ?」
「楽しい人間だからね」
「ふーん」
「あのね……」
 銀髪の少女は頭を抱えた。どこからどう突っ込もうか、と考えながら顔をあげ──
「……!」
 背筋が凍る。
 目の前に、二つの紅玉があった。
「じゃあ、強いの?」
 シャンパンゴールドの前髪越しに、姉と同じ深紅の瞳が二つ、こちらを見ていた。いっぱいに開かれた猛禽類の瞳孔がらんらんと光を反射し、細い三日月のような口から牙がのぞく。一切の駆け引きがないまっすぐな視線が彼女を射貫き、空間に貼り付けた。無尽蔵にわき出る妖気は彼女の体中にまとわりつき──
「目を見ちゃだめ」
「……ええ」
 魔法使いの言葉で我に返った。あわてて瞬きし、視線を魔法使いの方へと向ける。
 ──遅れて、自分の鼓動に気付いた。胸が苦しい。一時間くらい全力疾走をした後のような動悸。しかし血管には何も流れていないような錯覚がある。
「まあそうね、人間にしてはやる方だったわ」
 レミリアが首を傾げながら、自分の妹に声をかける。
「ほんとにそうね。レミィが何度もやられそうになったくらいだから」
「パチェは黙ってて!」
 噛みつくレミリアを軽くいなして、パチュリーは向き直る。
「まあ、そんなわけで、実は多少の面倒ごとは問題にはならないのよ」
 銀髪の少女は素直に納得した。
 まるで冗談にしか思えない敏捷さと強靱さを併せ持つレミリア。彼女だけでも手強いのに、おそらくそれを上回る破壊性能(ポテンシャル)を持つだろうと予想できる妹までいたとは。さらにはその、妹が放つ莫大な妖気を、ついさっきまで完全に、気配すら感じさせないほどに封じ込め隠して見せたほどの技量を持つ魔法使い。
 おそらくこの三人(?)だけで、一国の軍隊を葬り去ることが出来るだろう。そんな想像さえ現実味を帯びてしまう。
「でもね」
 パチュリーは言葉を続けた。
「それは、私たちの望む状態ではないわ」
「え?」
「誰が好きこのんで、戦争なんかするってのよ」
 レミリアが肩をすくめる。
「そんなことするのは人間だけよ」
「わたしも戦争すき!」
 はいはーい、と吸血鬼(妹)が片手を大きくあげた。
「フランのは一対一の『戦争』でしょ?」
 パチュリーに向かって、うん! と満面の笑みでうなずく。
「でも、だからと言って勘違いして欲しくはないんだけど」
 レミリアはそう言って腕を組んだ。
「私たちは、もっと楽しい場所に移ることにしたのよ。何かを避けるためでも、ましてや逃げるわけでもないわ」
「でもそれには、ちょっと問題があって」
 フランの頭をなでながら、パチェが言葉をつなげる。
「簡単には行けない場所なのよね。たくさんの要素がいる。それでもほとんど揃ったんだけど、あとひとつ足りない」
「要素?」
 困難な旅になるというなら、準備とか装備では無いのか。銀髪の少女がそう言う前に、魔法使いが頷いて言った。
「そう、要素。結界を超えるためのね」
「結界……超える?」
 オウム返ししてしまった銀髪の少女に、パチュリーはゆっくりと頷いた。
「『幻想郷』って知ってる?」


 げんそうきょう。
 そう言えば、と彼女は思い出した。確か以前退治した化け物のうちの何匹かが、間際にそのようなことを言っていた。
「よく知らないけど……天国みたいな場所のこと?」
 しかしパチュリーは首を振る。
「死んでから行く場所じゃないわ。確かに、そういう世界のすぐ近くにあるみたいだけど」
「どこかの酔狂な輩が作り上げた見世物小屋よ。誰に見せる訳じゃなく、自分たちが入るためのね」
「……」
 よく分からない。
「そこはこの世界から結界で切り離されていて……存在感を失ったり、忘れ去られたりしたものが集ってる。古い道具や、この世界で絶滅した生き物なんかが」
「集めているやつが居るのよ。私たちのようなのを、ね」
 吸血鬼や魔法使い、ということだろうか。
「つまり、あなた達もそこへ? 招待されたの?」
 ええ、とパチュリーはうなずいた。
「レミィが断ったけどね」
「は?」
 ますます話が見えなくなった。
「いけすかないヤツだったから」
 その時のことを思い出したのだろう。レミリアが、腕を組んだまま肩を怒らせた。
「あの狐。使い魔のくせに上から目線って何事よ」
「言葉遣いは丁寧なんだけどねぇ」
 つまり、その「幻想郷」とやらの関係者か誰かが、彼女らを招待するために使者を送ったのだが、レミリア達はその使者の態度が気に入らずに話を断った、ということか。
「でも、その世界自体は魅力」
 パチュリーの言に、うん、とレミリアが深くうなずく。
「だから行くことにしたの。力ずくでね」
「はあ」
 何とまあ、自由なことか。
「招待を断っておいて押しかけるとか……ずいぶんとはた迷惑な」
「行くための手段を自前で用意する、というだけのことよ」
 心外だとばかりに、レミリアが両手を広げてみせた。
「現地集合というやつね。招待されたんだから、行くこと自体に文句は言わせないわ」
「そりゃまあ、そうなのかも知れないけど」
 何だろう、銀髪の少女は少しずつ楽しくなってきた。
「……でもそういうの、嫌いじゃないわ」
「はた迷惑が?」
「自分の力で手段を用意する、というところがよ」
「それなら話が早い」
 ぽん、とパチュリーが手を打った。
「早くないわ。ぜーんぜん」
 フランが抗議の声を上げる。声が聞こえないと思ったら、彼女はいつの間にか窓の近くへ行って外を見ていた。
「もうちょっと待ってね。……で、話を戻すんだけど」
「貴方に手を貸して欲しいのよ」
 魔法使いの言葉を継いで、レミリアが切り出した。
「……え?」
 その言葉が唐突に思えて、銀髪の少女はそのダークグレーの瞳をぱちくりと瞬かせる。
「さっき言ったとおり、あとひとつ、足りない要素があるの。それは」
 パチュリーはじっ、と彼女を見つめた。
「時空間に干渉する力」


 パチュリーはもう長いこと、この「幻想郷に行く方法」について研究していたようだった。
 なぜ時空間、つまり時間と空間の両方に干渉する力が必要なのか。魔法使いはなるべく易しく、表現をかみ砕いて、例を交えたり、言葉を選んだりしながら説明してくれた。
 それでも、魔術はおろか一般的な学問にすら縁のない生活を送ってきたハンターの少女にとって、半分も理解できたものでは無い。時間と空間が同じものだとか、いったいどうやって理解すればいい?
 しかし、それでも大丈夫よ、とパチュリーは言う。レミィも分かってないから、と。
 それを聞いたレミリアは怒るどころか、当たり前よ、と言い放った。わたしはパチェが分かっているということを分かっている。パチェが分かっていれば大丈夫だということを分かっている。それ以上のことを分かる必要がどこにあるの? と。
 では、と咲夜は自問した。自分はどうだろう。
「……いくつか、尋ねたいんだけど」
 一通りの説明を聞き、少し思案したあとで、銀髪の少女はパチュリーに言った。魔法使いはどうぞ、と手のひらを向ける。
「もし貴方たちに協力した場合、ここの世界はどうなるの?」
「どうもならないわ」
 魔法使いが即答する。
「私たちが居なくなるだけ。人間の土地も、生活も、記憶もそのまま。だけど、街の外れに住む時代遅れの吸血鬼のことなんか、みんなすぐに忘れるでしょうね」
「そう……」
 おそらくそうだろう、と彼女も思う。そもそもこの国の為政者は、吸血鬼や魔法使いといったイレギュラーな存在を公式には認めていない。
 しばらくは市井の噂話として、もしかしたら何かの詩や物語として語り継がれるかも知れないが、そのうちに作り話のレッテルを貼られ、空想の産物として、いつしか風化する運命を辿るのだろう。
「じゃあ、わたしはどうなる?」
「多分、そっちもどうもならないわ」
「たぶん、ね……」
 薄紫色の魔法使いは肩をすくめた。
「文献に全部書いてあるわけじゃないもの。儀式に付き合ってもらうことで、多少疲れることはあるでしょうけど、命に関わるようなことは無いはず。だけどやってみないことには、本当に確かなことは言えないわ」
「パチェ、この人間が聞きたいのはそういうことじゃないわよ」
 魔法使いが目だけを動かして、吸血鬼の方を見た。吸血鬼は紅い瞳を、まっすぐに少女へ向ける。
「自分はこの世界にとどまるのか、それとも幻想郷に飛ばされるのか。貴方が気にしているのはそこでしょう?」
「……」
 本当に、この吸血鬼は油断ならない。
「そういう意味なら、お望みのままにというところね」
 パチュリーはうなずきながら答える。
「術が発動した後、すぐ離れれば巻きこまれることはないわ。貴方になら簡単でしょう? もし幻想郷に行くんだとしても、そもそもこの紅魔館ごと移るつもりなんだもの。ひとひとり増えたくらいじゃ何も変わらない」
「この建物ごと!?」
「当然よ」
 思わず素っ頓狂な声を出してしまった少女に対して、レミリアは答えた。何を驚いているのか、とでも言いたげな表情で。
「ここは私の城だもの。住む世界が変わろうとそこは変わらない」
「私も、図書館の本を全部荷造り、なんてしたくないし」
「はぁ……」
 何とまあ、夜逃げというレベルの話ではない。恐らく何らかの儀式を行うことになるんだろうが、魔術の専門家でも何でもない彼女にとって、どういう規模のどんな儀式になるのかまるで見当もつかなかった。
「……でもまあ、それなら」
 少女は少しうつむいて目を伏せる。銀色の前髪が微かに揺れた。
「もともとここへ来たのは、貴方たちをこの土地から追い出すため。それが叶うということか」
「じゃあ」
「その前に、もう一つだけ」
 魔法使いの声を遮って、銀髪の少女はレミリアの方を向く。
「わたしがここに来たのは、偶然?」
「偶然よ」
 レミリアは即答する。
「あなたたちが欲しがってる能力を持ってる人間が、都合良く現れたことも?」
「もちろん」
 レミリアはじっと、その紅い瞳に少女を映す。
「偶然なんて、時として重なるもの。そしてその頻度はそんなに低くないわ。関わる者の意志が強ければ特にね」
 いったん言葉を切る。
「少なくとも、呼び名が必要になるくらいの頻度で普通に起きる。貴方たち人間は、それに『運命』と名前を付けたのではなかったかしら」
「……」
 銀髪の少女もその鉛色の瞳で見つめ返す。が、しばらくしてふう、と息を吐いた。
「運命とか言い出されると、途端に胡散臭くなるけど……まあいいわ。協力しましょ」
「ありがと。助かるわ」
 間髪をおかずにパチュリーが言った。もう返答は予測していた、ということか。
 しかしレミリアは腕を組んだまま、じっと、銀髪の少女を見つめている。
 ……ま、吸血鬼から礼を言われることなんてありえないか。少女がそんなことを思っていたら、唐突に、紅い悪魔は口を開いた。
「貴方、名前は?」


「名前は? って聞いてるの」
 返事が返ってこないことをとがめるように、レミリアは言葉を重ねた。
「ちょっと、レミィ」
 あっけにとられた少女を見かねたのか、魔法使いが助け船を出す。
「名のる訳なんか無いってさっき言ったの、あなたよ」
 レミリアは沈黙をもって肯定した。
 全てパチュリーの、そしてレミリアの言うとおりである。
 名前を知られる、と言うことは、その人物、人格の全てを知られると言うことだ。
 逆に言えば、名前はその人物そのものと同格なのである。名前がその人物を表す。故に悪魔は名前を通じて、その者の魂を掌握する。化け物相手に名乗るなど愚か者のすること、というのは、そういう意味だった。実際には化け物といえど、そこまでの力を持ったものはまれではあったが──
「……《夜》」
「え?」
 ぼそり、と言った言葉は、魔法使いには届かなかったようだ。少女はうつむいていた顔をあげ、おどけたように肩をすくめてみせた。
「これから一緒に何かやろうってんですもの。いつまでも人間だの貴方だの言われていたら、肩こっちゃうわ」
 それから、腕を組んだままの吸血鬼に向き直る。
「でも残念ながら、親から貰った名前は知らない。そもそも貰ってたかどうかもね。周りからは《夜》と呼ばれているから、それでいい?」
「……ま、そんなところでしょうね」
 吸血鬼は組んだ腕を解いて、右手で後頭部をかいた。
「名前はその持ち主の全てを現す。その名前が貴方にはない。だから貴方には拠り所がない。最後の最後で自分を表現するものがない」
 独り言のようにつぶやく。誰かに聞かせる意図があるのか分からない。
「周囲から仮につけられた通り名は浮き草のようなもの。根が無いことを覆い隠すために、あなたの頭の良さは使われてきた……」
 目をつぶって何事か考えたあと、
「いざよい、さくや」
 レミリアは小声で、そうつぶやいた。
「うん、それで良いわ」
 納得するようにうなずいて、吸血鬼はくるり、と、銀髪の少女に向き直る。
「十六番目の夜と書いて『いざよい』、咲きほこる夜と書いて『さくや』。貴方はこれから、十六夜咲夜と名乗りなさい」
「へ?」
 銀髪の少女は何度か瞬きを繰り返した。きょとん、という形容詞がぴったりの顔をしている。
「日本語ね」
 下唇に握った人差し指を当てて、魔法使いが何事か考えながらつぶやいた。
「十六夜は満月の次の晩のこと。咲夜は、明るく照らされた夜を満開の花に例えた表現かしら? 幻想郷も日本にある。レミィにしてはなかなかのネーミングじゃない」
「当たり前よ。わたしのセンスを疑うの?」
「この館に不夜城レッドとか全世界ナイトメアとか、悪魔城ドラキュラとか名付けようとしたのは誰だったかしら」
「最後のは私じゃないわ」
「ちょ、ちょっと……!」
 我に返った少女は、本人の目の前で繰り広げられている会話の意味をようやく把握した。
「なに勝手に話進めてるの! そんな、拾った犬に名前つけるみたいに」
「気に入らない?」
 首だけ回して、レミリアが彼女をみる。う、と少女は言葉に詰まった。
「画数的にもなかなかのものよ?」
 なんのことだか分からない。
「と、とにかく私は──」
「それからもう一つ」
 レミリアは、ずい、と一歩、うろたえている少女に近づいた。
「この紅魔館で働くことを許すわ。今日は疲れてるでしょうから、明日からでいい」
「はあ!?」
「ああ、部屋余ってるし、その方が便利か」
 パチュリーがうなずく。
「仕事は、そうね……」
「家政婦でいいんじゃない? 庭師も門番も居るけど、建物の中のことを見てくれるひとがいなかったから」
「ちょちょちょちょっと!」
「この人間に、家政婦ねぇ……」
 レミリアは眉をひそめた。
「確かに必要なんだけど、勤まるかしら」
「判断は、やらせてみてからでも遅くないし」
「それもそうね」
「ひとの話を聞けぃ!」
 レミリアとパチュリーは相談をやめ、肩で息をし銀髪を振り乱した少女に向き直った。
「嫌なの?」
「いいとか嫌とかいう問題じゃなくて」
「じゃあ、何」
「私は手伝うとは言ったけど、ここで働くなんてひとっことも言ってないでしょ?」
「不満なの?」
「不満というか……?」
 反論しようとして、彼女は遠くから響いてくる声に気付いた。


「レミリアお嬢様!」
 どかん! というひどい音がして、入り口の大きな扉が外れた。掌底いっぱつであの分厚い扉を吹き飛ばし、飛び込んできたのは、紅い長髪が見事な細身の女性。──とても、あの扉を吹き飛ばすような腕力を持っているとは思えない。
「わたしはここよ。何があったの」
「大変ですお嬢様!」
 彼女は空中を転がるようにしてレミリアのすぐそばまでいき、片膝をついた。
「賊です! 侵入者です! 門を警備しておりましたが不意を突かれ、今まで意識を失っておりました! その隙に何者かが侵入した形跡が──」
 一気に早口でまくしたて、そこで初めて、彼女は周囲の雰囲気に気付いたらしい。きょろきょろと見回して、ようやくこの場に、見慣れない銀色の髪の少女が居ることに気付く。
「……あれ?」
 戸惑う彼女を無視して、レミリアは手のひらを上に向け、銀髪の少女に首を傾げてみせた。
 少女は右手で手刀をつくり、自分の首の後ろ、延髄のあたりをぽんと叩いてみせる。それで納得したのか、パチュリーは天を仰ぎ、レミリアは大きくうなずいた。
「あ、あのー……おじょうさま……?」
「紹介するわ」
 ふう、とため息をついて、レミリアは女性のほうに首を一回振った。
「うちの庭師兼門番よ。美鈴、挨拶なさい」
「あ、お客様でしたか……! これは大変失礼というか、お見苦しいところを!」
 美鈴、と呼ばれたその女性は即座に立ち上がり、帽子を取りながら彼女に向き直った。
「紅美鈴(ほん めいりん)といいます、ようこそ紅魔館へ!」
 そう言って、腰を九十度折り曲げる。しかしすぐに頭を上げて、美鈴はレミリアの方を向き直した。
「そ、それであの、お嬢様」
「まだ何かあるの?」
「ええ、その……侵入者の方は……」
「……」
 あきれた、という表現が良いのか。
 それとも「ぽかーん」という擬音が良いか。
 いずれにしても、レミリアはそういう形容がぴったりの表情を見せた。半開きの口のまま、そのまましばらく固まる。
「……ぷっ」
 誰かが吹き出す音がした。
 銀髪の少女がこの館を尋ねて以降、喜怒哀楽、威厳、高揚、無邪気、そして狂気、レミリアは様々な表情をしてみせていた。しかし彼女は、吸血鬼がこんな表情をするとは想像したことも無かったのだ。
「ふふふっ……くくっ」
 片手で口をふさぎ、もう片方の手で自分のお腹を押さえる。前屈みになりつつしばらく我慢していたが、ついに、堰が切れたように笑い出した。
「あっはははははははっ……!」
 屈託のない笑い声が、石造りの大ホールにこだまする。
 レミリアとパチュリーはしばし互いに顔を見合わせた。いったい何が起こったか計りかねていたが、笑い続ける彼女をみて、どちらともなく肩をすくめる。
「あ、あのー、えっと……」
「もういいわ、美鈴」
 つられてくすくすと笑い出したレミリアが、美鈴に声をかけた。
「侵入者はもう、撃退したあとなのよ」
 パチュリーが片目をつむりながら言う。
「彼女が追い払ってくれたわ」
「あ、お客様が……ああ、そうでしたか。確かによく見れば、ここで戦ったあとが見られますね」
 美鈴は周囲に視線を巡らし、破壊された床や柱を見て、合点がいった、という表情で帽子を胸に抱いた。それから肩を落としうなだれる。
「それは、その……賊の進入を許したばかりか、報告も遅れ、お客様のお手を煩わせてしまい……その、なんとお詫びすればいいか」
「いいえ」
 レミリアは美鈴の方を見た。
「美鈴は自分の責務をはたしているわ。今回はたまたま『侵入者』の方が上手だったというだけよ」
「精進します!」
「期待してるわ」
 美鈴はまた、腰を九十度折って頭を下げた。レミリアは一度大きくうなずく。
「……ぅーん」
 微かに、眠そうな声が遠くから響く。美鈴は頭を上げて、声がした方を見た。
「おや、妹様もいらっしゃったんですか」
「フラン、寝ちゃってたのね」
「まあ、待たせ過ぎちゃったわ」
 パチュリーはレミリアにうなずいて、ふわりと浮かび上がった。声のした方、窓の近くのキャットウォークに向かって移動する。レミリアはそれを見送ってから、丸くなって肩を振るわせている人間に視線を落とす。
「さて……いつまで笑ってるつもり? 『お客様』」
「あはははは……はぁー」
 片手を胸に当て、懸命に呼吸を整える。大きく肩で深呼吸をしてから、彼女は立ち上がった。
「ごめんなさい、なんかこう、ツボに入っちゃって……」
 両目に溜めた涙を手で拭きながら、なんだか、一生分笑った気がすると言った。
「一生分じゃないわ。せいぜい、これまでの人生分よ」
 レミリアは両手を腰に当てる。
「これからの人生分は、まだ先にとっておきなさい」
「そうね」
 銀髪の彼女は目を伏せた。過去を全て笑い声に変換してしまった今は、吸血鬼の言葉を、何故だか素直に受け取ることが出来る。
 彼女は、首に下げていた銀製の十字架に手を当てた。そして握り、力を込めて瞬間的に引く。ぶつっ、という鈍い音がして、彼女の首の周りに細い鎖が舞った。銀髪の少女はそのままポケットに手を入れて、いま手に握ったものを中に落とす。
 それから、帽子を胸に抱いたままの美鈴に向かって、挨拶が遅くなってごめんなさい、と声をかけた。
「咲夜よ。……十六夜、咲夜。以後よろしくね、先輩」




「……」
 エプロンドレスのポケットから、咲夜は握ったままの手を出す。
 結んだ手を開くと、そこには銀製の十字架があった。
 別にあの時、今まで自分がいた世界を否定しようと思った訳ではない。単にこれから吸血鬼の館にやっかいになる身として、首から提げておくのは適切ではないだろうと思ったからだった。
 だから、外した。
 もっともあの紅い悪魔のことだから、この程度の十字架など何とも思わないだろう、とも考えた。
 だから、取っておいた。
 それだけだ。
 ……家政婦(メイド)の仕事は思った以上の重労働だった。何せこれまでこの紅魔館は、ほとんど手入れがされてこなかったからだ。
 聞けばパチュリーが定期的に使い魔を呼び出して、最低限の掃除や片付けをさせていたらしい。
 まあその程度では、この広い洋館のメンテナンスは無理だ。
 幸いにして──これも偶然というべきか──、咲夜には家政婦としての心得と経験があった。見よう見まねのレベルではあったが無いよりはマシだ。咲夜は持ち前の手際の良さと行動の早さで、レミリアの居室から廊下や玄関に至るまで、二週間ほどで館中を見られる程度に仕立て上げてしまった(ただし、パチュリーの図書館は除く)。
 もっとも瓦礫や崩れた石柱の撤去、交換といった力仕事は彼女の身に余る。そういったところは美鈴やパチュリーに手伝って貰っているが。
 平行して、咲夜の能力は警備方面にも発揮される。門番としての役割を美鈴と分担することで、逆に外回りのケアは美鈴に任せることができた。美鈴にとっては庭師としての本領発揮で、外壁の掃除や修繕だけでなく、生け垣や花壇まで館の周囲に整備されていった。
 そのうち──初めは「家政婦ごっこ」のつもりだった咲夜も、そうやって業務をこなし、日々を紅魔館で過ごしていく内に、いつの間にか、吸血鬼を「お嬢様」と呼ぶことに抵抗感どころか、違和感すら無くなってしまった。
 そうして迎えた満月の夜。幻想郷に移るための儀式が執り行われた。
 術は滞りなく、期待通りに発動し、紅魔館は湖に浮かぶ孤島の中央に移動する。
 余談だが、吸血鬼は水辺が嫌いなんじゃなかったのかと咲夜が尋ねたところ、咲夜は私が入浴しないとでも思っているのか、との答えが返ってきた。パチュリーの解説によると、明らかな流水でなければ問題もなく、むしろ空中や地面の上を水が流れる分、雨の方が彼女ら、つまり吸血鬼たちにとってはやっかい、とのことらしい。
 風呂だって体に水をかけるし浴場の床をお湯が流れるだろうとか、流れる血液は問題にならないのかしら、とか一瞬思ったが、話が長くなりそうなので聞かないことにした。きっと量の問題なのだろう、と自分を納得させる。
 他にも、直射でなければ日光も大丈夫(日傘は欠かせない)とか、豆が嫌いとか、それなのにここ、幻想郷の風土料理である納豆(腐った豆にしか見えない)は気に入ったとか。もしかしたら、ニンニクもあの味と臭いが嫌いなだけで、弱点というほどでは無いのかもしれない(試そうとは思わないが)。吸血鬼との生活は咲夜の持つ先入観を次々と崩していった。しかしなんというか、咲夜には、崩れ方としては微妙な感じがしていた。
 閑話休題。
 ここ幻想郷は、当たり前ではあるが、今までいた世界よりずっと「幻想の存在」にコンタクトしやすい。しやすいどころか、そういった存在がそこら中に普通に居るのだ。パチュリーが司書を募集したところ、応募してきたのが悪魔族の少女だったという具合である。咲夜も妖精たちを集め、単純な作業を任せるようにした。……とはいえ所詮は気まぐれな妖精のこと、あまり仕事量が減ったという実感は咲夜にはないが。
 そんな感じで、環境が変わったことに付随するドタバタはあったものの、新しい環境での日々は比較的平穏に過ぎていった。
 もっとも、全く何も無かった訳ではない。
 幻想郷の住民との衝突は、その最たるものだろう。
「……」
 思えばその「衝突」以降、「平穏」になってしまったんだな。咲夜は心の中でそう独りごちた。
 いったい──
 紅い悪魔が、
 レミリア・スカーレットが、
 ここ、幻想郷に来た目的はなんだったんだろう。
 今のレミリアの様子を見ていると、自然とそういう疑問が沸いてくる。
 ここへ行く、と言い出したのは、きっとレミリアだろう。パチュリーは恐らく賛同しただけに違いない。彼女はきっとどこででも、本さえあれば生きていける。
 フラン、つまりレミリアの妹のフランドール・スカーレットは、姉が決めたことに従うだろう。というか、姉やパチュリーや美鈴が居るところならどこでも良いに違いない。まだその程度の社会観しか持っていないように見えた──ずっと館の中に居るのだから、当然とも言えるが。
 美鈴は雇われている身だし、あの真面目さと義理堅さからすれば、どこへでもついて行くだろう。居心地の良いところなら無論のこと、居心地が悪ければ尚更、その主人を守るために。
 咲夜は苦笑した。偉そうに分析してみたが、別に、昔から彼女らを知っているわけではない。
 ないのだが、知り合ってから幻想郷に来るまでの期間の、遠足前の子供のように楽しそうなレミリアを見ていると、果たしてどっちが「彼女らしい」状態だろうか、と考えてしまう。
 その考えを突き詰めると、そもそもこの地にきた理由が気になってしまうのだ。
 ……そう言えば。
 ふと彼女は、最初にここへ──紅魔館へ来たときのことを思い出した。
 戦闘が終わり、パチュリーが現れて、幻想郷へ行くのだと言われたとき。
 あのときレミリアは、幻想郷に彼女らを招待しに来た使いを指して、「気にくわない」と言っていなかったか。
 ある一つの考えが頭に浮かんだ。
「……まさか」
 ぽつり、と銀髪の家政婦はつぶやく。
 まさかレミリアは、既に幻想郷に来た目的を果たしてしまったのではないのか。
「ここには単に、気にくわない輩をぶん殴りにきただけなんじゃあ……」
「さくやーっ」
 唐突に名を呼ばれて、咲夜は瞬間的に背筋を伸ばした。
「はははははいいお嬢様! 何かご用でしょうか!」
「いつまでそっちに居るのよ。ちょっと、紅茶入れ直してもらえない?」
 隣の部屋から聞こえる声。
 やっぱりダメか、と咲夜は悔やんだ。つい適当に誤魔化してしまったものの、やっぱりあれは渋いだろう。
 そう、頭では分かっていた。こんなことでは家政婦失格だ。
 どう謝ろうか、と逡巡した次の瞬間、
「考え事してたら冷めちゃった。悪いんだけど、もう一杯入れて欲しいの」
 ──ああ。
 咲夜は、なぜ自分が吸血鬼ごときを「お嬢様」と呼んでいるのか、その理由を思い出した。
 この吸血鬼は、一分の隙もなく、相手を威圧して当然の、それでいて気まぐれで気移りが早く、永遠に幼い格好の──
 根っからの「お嬢様」だったからだ。
 咲夜は十字架を乗せた手のひらを結んで、エプロンドレスのポケットに突っ込んだ。
「はーいっ、今行きますわ」
 勢いよく振り向いて、ついでに今までの思考も振り払う。
 もし既に、当初の目的を達してしまったのだとしても。
 移り気で気まぐれなお嬢様のことだ。すぐにまた「楽しいこと」を見つけるに違いない。
 あるいは──
 すぐにまた「偶然」が起きて、楽しい訪問者がやってくるだろう。
 あの時あのタイミングで、銀髪の少女が現れたように。



(続く)