Crimson Glory 〜 紅霧前夜譚

-2. 前日の朝、紅魔館

── Her destiny is frequently met in the very paths she take to avoid it.


 今ナイフを投げたら、お嬢様の胸に突き立つかも知れない。
 ふと彼女は、そんなことを考えた。
「……お嬢様?」
「何かしら」
「──あ、いえ……」
 言いよどむ。すぐ返事が返ってくるとは思っていなかったのだ。私が声をかけることではじめて私の存在に気づき、驚く一瞬の間がある──そう想像していた。
 窓の近く、外の景色が一望でき、かつ、一年を通じて絶対に日差しが差し込まない位置に置かれた椅子に、彼女の主人である「お嬢様」は腰掛けている。
 お嬢様の小さな背丈には少々不釣り合いな、古い樫の木の大きな椅子に深く座り──そのせいで、足が浮いてしまっている──、わずかに首を傾け、その紅く大きな瞳を窓の外に向けていた。
 身にまとうのは、薄い赤のワンピース──その色を、桜色、と表現することは妥当だろうか。随所を飾る赤いリボン。サイドテーブルに置かれたカップに紅茶がまだ残っているかどうかは、エプロンドレス姿──いわゆるメイド服──の彼女が立つ位置からは見えない。
「何か、お気分が優れないようにお見受けしましたので。……どこか、具合の悪いところでも?」
「貴方がここに来て何年経つのかしら」
「……失礼しました」
 いつも通りのお嬢様だ。彼女はそう思った。いつもの通り、一分の隙もなく、相手を威圧して当然のお嬢様。
 自分の具合がどうかくらい、見て分からないのか。そう言っているのだ。彼女はスカートの前で両手を重ね、頭を下げた。
「それで、何の用なの?」
「いえ、ですから──」
「用もないのに、ずーっとそこに立っていたの? メイド長の仕事ってずいぶんと暇なのね」
「あ、……」
 お気づきでしたか、と言いそうになって、彼女は言葉を飲み込んだ。
「……ええ、そちらの事でしたら……そろそろお休みのお時間かと思いまして」
「そうね、もうすぐ空が明るくなるわ。でも……」
 そこで初めて、桜色のお嬢様は彼女の方を向いた。血のような紅い瞳をまぶたの奥に隠し、口元から八重歯を覗かせる。
「その前に、もう一杯だけちょうだい。咲夜の入れた紅茶は美味しいから」
 にこっと笑う。
 彼女は──十六夜咲夜(いざよい さくや)という名前の少女は、見開いた目を二、三度ぱちくりとし、それからゆっくりと息を付いた。一瞬にして、緊張が溶けて消える。
「レミリア様ったら……眠れなくなっても知りませんよ?」
 ああ、いつも通りのお嬢様だ。
 一分の隙もなく、相手を威圧して当然の、気まぐれで気移りの早い、永遠に幼いお嬢様。
 失礼します、と一言いって、咲夜は給仕用の銀製のワゴンを押しながら部屋に入った。……もちろん給仕用のワゴンなど、先程まではそこになかったものだ。
「ミルクティーにしましょう。本当は明日お出ししようと思っていたのですが、良いセイロンの茶葉が手に入ったのですよ」
「何でもいいわ。咲夜が淹れたものならハズレはないもの」
 屈託のない表情のレミリアの目の前で、咲夜はなれた手つきで、蒸らした茶葉を適温に温められたポットに沈める。
 ──それにしても。
 茶葉から色と香りが溶け出す様子を想像しながら、同時に、咲夜は先程のことを思い返した。
 あんなことを思ったのは、何年ぶりだろうか。……何十年? それとも何百年?
 もうずいぶんと昔の話に思える。ここに来る前、いや、来たとき、か。
 そう、彼女がここ──紅魔館と呼ばれるこの紅い、死の館に、館の主である吸血鬼を殺すために訪れた、その時以来のことだった。




 ゴゥン、という重い音を立てて、高さ三メートルはあろう大きく分厚い扉が開く。
 ……開く、といっても、実際には数十センチ程度の隙間が出来たところで、扉の動きは止まった。その隙間から、まず銀髪が覗き、続けて小さな頭と、鉛のような深いグレーの瞳が顔を出した。
 きょろきょろと周囲を見回し、一度ひっこんで、今度は右手、肩、半身と、銀色の髪とグレーの瞳を持つ少女が、ゆっくりと室内に入ってくる。
 分厚い扉に閉ざされた、暗く、重苦しい空気の部屋。天井は高く、部屋の暗さのなかに沈んでいる。天井だけでなく、部屋の左右の壁も、等間隔で建てられた石造りの柱より先は闇に溶け込んでいて見えなかった。
 唯一見えるのは、いま少女が入ってきた扉からまっすぐに奥へと延びる赤い絨毯と、その両脇にこれまた等間隔に並ぶ燭台の蝋燭の火。
 よく見ると、左右の壁には窓が取り付けられていた。見上げなければ分からない位置、床から五メートルは上だろうか。壁までの距離が分からないので推測である。満月の夜であれば、明るい月の光が差し込み絨毯を照らすのだろう。今はわずかに、雲の切れ間から覗く銀色の粒が見て取れる程度だった。
「こんばんわー」
 そんな、およそ気軽に客を招き入れるような雰囲気とは無縁の空間に、その少女は無遠慮に踏み込んだ。わざとか、それとも何も考えていないのか……不釣合なほど緊張感のない声が、残響音を伴ってホールに響く。
「誰かいませんかー?」
 少女は返事を待たずに、赤い絨毯の上を一歩、また一歩と歩き出した。
 年の頃は、十代半ばといったところだろうか。小柄と表現しても良い。暗い色の、動きやすい服装に身を包んだその姿は、その声と、編んだ銀髪が無ければ、少年と言われても不思議ではない出で立ちだった。
 いや、本当は少年なのかも知れない。首に下げた銀の十字架は別として、それ以外の持ち物はおよそ少女らしくは無かったからだ。
 両手には革の手袋。腰には丸く束ねられた鞭と、革製の鞘に収められた短剣。肩から下げた小物入れは使い込まれた様子で、その中には、ある程度重いものが収められていることが見てわかる。歩くたびにシャラシャラと、金属の擦れる音が微かにした。
「ちょっと、ここの領主に用があって来たんですけどー」
 時は真夜中。あまり、他所の館を訪ねる時間とは言えない。
 もっとも、人がいるような雰囲気の館でもないが──
「そんなに大声を出さなくても、聞こえてるわよ」
 部屋の奥から声がした。
 男性の声でも、女性の声でもない。子供の、もっと言えば小さな子供の声だ。声量は決して大きくはないが、それでも静寂を貫く鋭さと力強さが備わっている。
「ああ、そこに居たんですね」
 銀髪の少女もその声を聞いて、少し歩を早めた。
「良かった、お留守だったらどうしようかと。お嬢ちゃん、お父さんかお母さんはいる?」
「面白いことを言うわね。人間ってそんなに楽しい存在だったかしら」
 声は聞こえるが、その姿はまだ闇の中だった。まっすぐに延びる絨毯と蝋燭の火、その先から響いてくる。
「それとも、貴方が単に楽しい人間なだけ?」
「私は普通よ。別に楽しくは無いわ」
 ようやく近づいたからか、それとも目が慣れてきたからか。
 まず、並んだ蝋燭の火の終わりがみえた。そのすぐ先には階段。広間と同じ幅を持つだろう横に長い階段の段にそって、絨毯はそのまま上まで敷かれている。
「普通……ね。あまりそうも思えないけど」
「それは、褒めてくれているの?」
「そもそも、こんな時間にここにくる人間が、普通であるはずはないわ」
 十数段程度の階段の上に、大きな燭台がみえる。絨毯の左右に一台ずつ。七〜八本の蝋燭が掲げられ、微かな空気の流れに反応して、ゆらゆらと影を揺らしていた。
「美鈴はどうしたのかしら」
 その燭台に挟まれるようにして、大きな椅子が置いてあるのが分かった。蝋燭の灯りに照らされて、くすんだ金色の鈍い光を反射している。
「門の前に門番が居たはずだけど」
「門番……ああ、確かに居たわね」
 歩きながら、少女は小首を傾げてみせる。
「その門番なら、寝てたわよ」
「あら、そう」
 よく見るとその椅子には、小柄な人物が腰掛けていた。
「美鈴(めいりん)には、お客が来たら案内するようにって言ってあるのに……仕方ないわね」
 椅子に座っているのは、赤い服を着た子供。
「じゃあ聞くけど、何しにきたの?」
 ふっと、ひときわ大きく空気が動いた。
 風に煽られ、燭台の蝋燭が明るさを増す。その灯りに照らされて、子供──女の子の姿が浮かび上がった。
 薄い赤をベースに、鮮やかな紅を全身に振りかけたような意匠のワンピースドレス。薄い赤色のナイトキャップはプラチナのような色の小さな頭を隠し、真っ赤なリボンで大きく止められている。
 その、プラチナ色の前髪の後ろから覗く、紅玉のような大きな瞳。
 銀髪の少女は歩みを止めた。
「私は、ここの城主に会いに来たの」
 腕を組み、自信満々の顔で女の子を見上げる。
「ここから出ていって下さいってね」
「あら、ここは私の城よ?」
「じゃあ永眠でもいいわ。二度と出てこれないように……」
 少女はそこまで言って、何かに気づいたように言葉を切った。
「……『わたしの』?」
「ようこそ、というべきかしら」
「ふぅん、じゃあ貴方が……」
 少女の瞳がちらりと光った。興味深く、椅子に座る女の子を観察する。──この館の主、『紅い悪魔』の異名を持つ吸血鬼を。
「あなたが、スカーレット家のレミリア嬢、というわけね」
「お初にお目にかかるわ、来訪者さん」
 くすり、と女の子は──レミリア・スカーレットは微笑んだ。来訪者であるところの少女は、紅い悪魔の衣装を──まだらな紅色を見て、微かに眉間にしわを寄せる。
「素敵な色のお召し物ね。その染料は何人分かしら」
「さあね。いちいち数えてなんかいないわ」
「吸血鬼も冗談を言うとはね」
 少女は口元に笑みを浮かべて見せた。が、鉛色の目はそうではない。銀髪が微かに揺れる。
「人間になんて呼ばれているか知ってて、そういう格好をしてるんでしょ?」
「あら、」
 その様子を見て、レミリアは少しだけまゆを潜めた。
「返事がストレートすぎたみたい。少し捻った方が良かったかしら?」
「そういう問題じゃなくて」
 少女は目を伏せ、半ば呆れたような声をだす。
「本当の血だったら、すぐに茶色くなってしまうでしょ」
「あら、ほんものよ?」
 レミリアは心外という具合に、少しまゆを上げてみせた。
「知り合いの魔法使いに頼んだのよ、色が変わらないようにって。血の色がいつまでも紅くないのは、鉄が錆びるのと同じ理由なんですって」
「……まあ、どうでもいいけど」
「ええ、どうでもいいわ」
 彼女は表情に出さないように気をつけながら、内心で舌打ちする。もし本当に相手の服に魔法がかけられているのなら、彼女が放つ銀のナイフは、その魔力に打ち勝つことが出来るだろうか。
 まあ、それならそれで打つ手はある。が、さらに最悪なのは、その魔法使いがこの館に居る場合だ。下調べの段階では、そんな存在はひとっ欠片も噂されていなかったが……
 いずれにしても、短期決戦で行った方が良さそうだ。
「こっちもあまりヒマじゃないの。さっさと返事を聞かせてもらえる?」
「せっかちさんね」
 くすり、と小さく笑う。
「今宵は月が出ていない。興ものらないし、あんまり楽しいおもてなしは出来ないのだけど」
「交渉は決裂ね」
 少女は右手で額をおさえ、目を伏せる。少女のまぶたが開き、ダークグレーの瞳が紅く灯る。
「残念だわ。とってもざんね」
「──?」
 一瞬の違和感、そうレミリアが思うと同時に、
「ん」
 閃光。
「──あら」
 少女の胸の前で何かが光る、とその次の瞬間、レミリアはその手にナイフのつかを掴んでいた。小刻みに揺れる銀色の刃はまっすぐに、彼女ののどもとを指している。
「驚いた。全然見えなかったわ」
「……それはあげるわ。挨拶代わりにとっといて」
 彼女はそう言いながら、驚いたのはこっちのほうよ、と口の中でつぶやく。彼女は完璧に、ナイフを投げるモーションを隠してみせた。一直線に飛ぶ刃は銀の矢となって吸血鬼ののどを射抜く。いくら吸血鬼といえど、予備動作の無い投擲、しかもこの、十メートルそこそこの距離では反応できまい。そうふんでいた。
 しかし実際は御覧の通り。反応できないどころか、避けるでもなく、防ぐでもなく、銀の刃をさけてつかを掴みとるなんて芸当を見せられてはたまらない。
 ──素早さについては折り紙付き、というわけね。
 しかしそれならそれで、戦いようはある。吸血鬼といえど手は二本。掴めも避けも出来ない数を叩き込むだけだ。
 ようやく、彼女の胸の前からまっすぐに伸びる光の残像、ナイフの軌跡が闇に溶けた。
 レミリアは掴んだナイフをまじまじと見て、ちらりと少女の方を見る。
 そして、にっこりと笑った。ぴょこん、と椅子から降り、小さく畳んでいた背中の羽根を広げる。小さな幼い体には不釣合なほど、広く、力強い一対の黒い羽根。鳥のように沢山の羽根を蓄えたものではなく、色も、外見も、コウモリのような──いや、まさに悪魔のそれだった。
「ありがと。大切にするわね」
 のびのびと羽根を広げた紅い衣の女の子は、胸に銀のナイフを抱いて、その紅い瞳で銀髪の少女を見つめ、八重歯のような犬歯を楽しそうにのぞかせた。
「──やっぱり、楽しい人間だったわ」


 同時に、両者が飛ぶ。
 少女は右へ。両手の指に投げナイフの細い刃をはさみ、右手を左肩の上へ、左手を右の脇腹へ。両腕という投擲装置のバネを引き、いつでも発射できる状態で跳躍する。
 レミリアは上へ。吸血鬼のもつ、人間とは比較にならない身体能力を魅せつけるように大きく飛んだ。たん、と天井を蹴る音を最後に行方が消える。
 ──右。
 思うより早く体が反応する。地面を蹴ってバックステップ、と同時に、数瞬後に少女が居るはずだった空間を、右背後から左前方へ、弾丸のような速度で赤い影が通過した。
「良く避けたわ!」
 よく、は左から、よけた、は上から聞こえる。わ、は部屋中に反響してしまって分からない。たん、たん、たん、という壁を蹴る音が、彼女の周囲のあらゆるところから聞こえてきた。
「じゃあ、これなら?」
 レミリアの声が上からした、と同時に少女は床を蹴る。先程まで足があった場所を、地上すれすれに滑空してきたレミリアが通過。大きく反って逆立ちのように両手をついた少女は、さらに後方へ、腕の力で低く飛ぶ。戻した背中のすれすれのところを、壁を蹴って戻ってきたレミリアがパスする、その瞬間、
「ちょっ!」
 無理矢理両足で地面を蹴って後ろに跳ぶ。一寸遅れて、銀色の後頭部があったハズの場所にレミリアの腕が落ちてきた。ドゴォンという破壊音と共に小さな手刀が石造りの地面に突き刺さり、真っ二つに割れた石材が反動ではじけ飛ぶ。
「ははっ! 上手く避けるわね!」
「勘弁して欲しい程度の馬鹿力……」
 ごろごろと三回くらい地面を転がって勢いを殺しつつ、とっさに横に跳んだ。戻ってきたレミリアがまた、足元にあった床を破片に変える。
「でも、この部屋の空間は把握した! だからこういう」
 少女の足が地に着く、と同時に前へ。彼女の後を追うように、背後から赤い影が高速で迫り、
「ことも出来る」
 ひらり、と身をひねる。と、先程まで少女の首があった位置に銀色の刃が浮いていた。
「!」
 さすがに今度は余裕が無い。レミリアは床を蹴って半身をひねり、無理やり自身の軌道を変えた。超低空の棒高跳びのようにナイフを飛び超えて着地。そのまま数回飛んで距離を取り、動きを止めた少女に正対するように立ち上がる。かしゃん、と音を立ててナイフが床に落ちた。
「すごい! 良くやるわ、人間」
「……そろそろやられてくれると、助かるんだけど」
 相手にさとられないように気をつけながら、少女は息を整える。視線をそらさないようにゆっくりとしゃがみ、床に落ちたナイフを拾った。
「──空間は把握した、って言ったかしら。それが貴方の能力?」
「え、そんなこと言ったっけ?」
「わたしは地獄耳なの」
 ぺろ、と少女は下を出した。
「もしそうなら、つまり貴方がどこに行っても、私には分かるってことね」
「そうね。でも、元々逃げるつもりなんかないし」
 ぐっ、とレミリアは身を沈めた。腰を低くし、両足のバネを縮める。
「場所が分かる、と、攻撃を避ける、は別のものだわ」
 ──来る。とっさに少女は左に飛んだ。レミリアをやり過ごす──
「!」
 通り過ぎたと思った赤い影が目の前にあった。ただでさえ小柄な身をさらに沈めた姿勢の女の子は、床を蹴って宙にういたばかりの少女を見上げ、その姿を両の瞳で捉え、にっこりと微笑み、無造作に右手を振り上げた。
 空中に二本、紅い線が刻まれる。人差し指と中指、吸血鬼の長い爪が空気を裂き、ついでのように少女ののどに切れ目を入れた。
 が、彼女は首を大きく後ろにそり、それをやり過ごす。かわりに数本銀色の前髪が短くなった。
「ひぇぇ……」
 ほんの鼻先をかすめた爪先に焦点があって、寄り目になった少女は、それでもすぐに右手のナイフを順手に持ち替え、その勢いを乗せて振り上げる。しかしその時にはもうレミリアは距離を取っていた。銀のナイフは宙を切る。
「こンの!」
 着地してすぐ姿勢をたてなおし、追い討つようにナイフを放つ。左右三本ずつ六筋の光の矢を、レミリアは右に左に跳んで避けた。
「あははは! 楽しい人間ね!」
 レミリアは一転、また一気に距離を詰めた。少女は今度は右に跳ぶ。振り上げられた吸血鬼の左手の爪、その勢いを活かして身を捻りつつ振り下ろされた右手の爪、両腕よりも長い二枚の羽根を連続で避けたあと、一瞬のフェイントのあと鞭のように跳んできた右足のつま先を、寝せたナイフの刃で無理やりガード。その勢いを借りて彼女は後ろに跳んで距離を取る。
「油断してると舌噛むわよ?」
 しかしレミリアは逃がさない。ひと跳躍で距離を詰め、少女のふところに潜り込む。
「舌だけですめば……!」
 レミリアはここで初めて、全身に「力」を込めた。錯覚のように、幼い体躯の輪郭が紅く歪む。
「やばっ」
 レミリアは体を捻り、輪郭を歪ませていた紅い「力」を周囲にまとって、その勢いのまま突き上げるように地を蹴った。ガコッという鈍い音とともに石組みの床がクレーターの様にへこみ、ホコリと石片が舞い上げられ、絨毯が波打ち、周囲にあった蝋燭の灯りが一斉にかき消される。暗闇のなかに、二筋の紅い帯が螺旋状に登った。遅れて、燭台の倒れるカランカランという音があたり中から鳴る。
 ──この広い空間、大広間を、縦横無尽に飛びまわることが出来る脚力を螺旋状に折り畳み、距離でも速度でもなく、ただ目前の獲物を破壊する目的に転化した、その結果がこれである。人間程度の身体が耐えられる衝撃ではなかった。
 全ての力が開放され、上昇力を失った位置、空中の一点でレミリアは静止した。くるっと振り向き、獲物が居たはずの場所を確認する。
「……はずした?」
「ご明察」
 出来たばかりの丸いクレーターの中心に立ち、銀髪の少女は身を屈めていた。しかし見ただけで、受けたダメージの大きさが分かる。頭をたれ、両腕で自分自身の体を抱えて、両足は内側に傾き地に立つことがやっとのように──
 いや、違う。
 その両の手には銀色のナイフが束で握られていた。体を抱えているのではなく、立つのがやっとなのではなく、単に力を内に貯めているだけだ。
「今度はこっちの番よ!」
 彼女は貯めた力を開放した。両手を両足を開き頭を仰け反らせる。グレーの瞳には赤い光が灯され、放たれた幾筋もの銀の矢は四方八方に飛び、床に壁に天井に当たって跳ね返る。
「あはっ!」
 銀色の軌跡は縦横無尽に空間に織り目を描く。その様子を見てレミリアは楽しそうに笑った。上下左右前後から迫るナイフを避ける。首をひねり、手をふり、足を上げ、体をそらして羽根を揺らす。その姿はまるで空中で踊っているかのようで、ナイフのいくつかは衣服や髪の毛をかするが、受けた傷はひとつもない。
「……この化け物っ」
 瞳の赤色がさらに明度を増す。鞄に手を突っ込み、再度両手にナイフを掴んだ。さらに複雑に、かつ緩急のついた、隙間のない軌道を描くようナイフを放つ。
 しかしレミリアは空中で、踊りながら笑みを浮かべた。
「いくら逃げ場がなくってもね、」
 手を伸ばし、手のひらを広げる。まるで主の召喚に答えるように、手のひらのうえにくさび状の分銅が現れた。紅く光る、圧縮された妖力の塊。レミリアが手をひねると、分銅はその手を起点に弧を描き、弧は円になる。分銅から伸びた妖力の鎖をレミリアは掴み、振り回して、飛んでくるナイフをたたき落しだした。
「跳弾なんて、たいした勢いはないものよ」
 キン! という涼しい音がして、空中の最後のナイフがたたき落とされた。しかしレミリアが回す分銅はそれで止まらず、どんどん回転速度を上げていく。鎖が風を切ってひゅんひゅんと鳴る。
 銀髪の少女は油断なく構えた。回転速度があがり、本数が増えたような残像が網膜に残る。しかしどんなに速かろうが鎖の一本や二本、いなすなり、ナイフで壁か地面に打ち付けてしまえば──
 レミリアは腕を振り上げた。回転運動の勢いがそのまま直線運動に転化される。手を離れた分銅は天地と水平にクロスを描いた。
「ってそれ反則ーー!」
 上下左右に放たれた紅い四本の分銅は、その後をトレースしてくる鎖に螺旋を描かせつつ、それぞれが蛇のように彼女に襲いかかった。大きく後ろに跳んで距離をとるが、分銅はまさに意志を持ち、標的をとらえ、自身の軌道を変えて追尾してくる。
「じょぉっだん……」
 彼女は走った。体捌き程度では避けるのは無理とふんで、広間の横の暗闇を目指す。
「暗いからって、振り切れるとは思わないでね?」
 レミリアの言うとおり、分銅はまったく意に介さないように彼女の後を追う。全力で駆ける少女に背後を伺う余裕は無いが、
「んなこと狙ってないけれ、ど!」
 等間隔で並ぶ石柱の一本に手をかけ、無理やり進行方向を90度曲げる。間一髪、追尾式の分銅は突き刺すべき相手を見失った。四本がそれぞれに獲物を探して蛇行し、輪を描いて方向を転換する。
「そこ、次々壁に突き刺さる場面でしょうが!」
 等と言いつつも、最初から少女は走る速度をゆるめていなかった。距離を稼ぐのが目的、と言わんばかりに、再び背後に四本の鎖を従えて、柱のすぐ脇を駆け抜ける。
「追いかけっこもいいけれど、」
 ふっと、全力で走る銀髪の少女の目の前に赤い影が飛び込んできた。
「ここがゴールね!」
 右手の手刀を左に貯め、レミリアは居合の様に振り抜く。暗闇を切り裂く紅い軌跡に柱の一本が犠牲になった。直径で一メートル程度の石の柱は、まるで長芋を折るように簡単に分断される。
 ──が、
「同感だわ」
 手刀の軌跡が網膜から消えるより早く、レミリアは頭部に軽い圧迫感を感じた。小さい頭に置かれた手、彼女はそのさらに上にいた。切り株か何かを飛び越えるように重心を高く移動させ、倒立前転のように足を振りあげる。
「っ……!」
 まただ。跳び箱にされた紅い悪魔は下唇を噛んだ。またこの人間は、必中の間合い、必殺のタイミングから飛び抜けてしまう。
「このっ!」
 レミリアは体をひねって、左の手刀で頭上をなぎ払った。少女は指で突き放すようにして手を引き上げ、倒立前転から宙返り。その彼女を追って、レミリアの背後から分銅の鋭い切っ先が飛び込んできた。
「それが狙い、でもね!」
 分銅はわずかに方向を変え、レミリアの体のすぐ横をかすめた。吸血鬼は一瞬背後に注意を向けたものの、すぐに向き直り、少女の方に声を荒げる。
「私に当たるはずないでしょう!?」
「だと思った」
 不釣合なほど冷静な声がレミリアのすぐ横、耳元から聞こえた。少女は逆さまの姿勢で空中にいた。吸血鬼を飛び越えた勢いで柱に飛び、蹴って百八十度の方向転換……というところだろうが、その素早さは尋常ではない。しかも右手にはナイフではなく、腰から外したひと巻きの鞭に持ち替えている。
「!」
 空中で彼女は鞭を振りあげ、妖力で出来た鎖を下から叩く。鞭はしなり、空中で四本の鎖に巻きついて束ねた。少女はぱっと鞭を手放す。
 猛烈な勢いで、束ねられた鎖はレミリアに迫る。避けようとしたが、方向を変え戻ってきた分銅の先がその進路を絶った。紅い妖力の鎖はその主に絡み、行き場を失った分銅はぐるりと円を描いて、ジャラジャラと音を立てながらレミリアに巻きついた。
「ほい、おまけ」
 一度も地面に着地すること無く、再度柱を蹴って戻ってきた少女が、真ん中を折られた柱に飛びつき、体重をかけて、両足で思いっきり蹴った。切断面がずれ、天井から抜けた石柱は、ゴトンッと音を立てて床に落ち、台座に残った部分を支点にして、レミリアの頭上に倒れ落ちる。
「くっ……!」
 レミリアは鎖で上半身を拘束されたまま、脚力だけで無理やり飛び上がった。一瞬遅れて、柱の倒れる音がズンと響く。飛び散る石の破片と、もうもうと立ち上る砂ぼこりを避けて空中に静止し、吸血鬼は全身に力をいれた。自らの妖力で練り上げた鎖を引きちぎる。
「があっ!」
 ばちん! と放電のような音を立てて、鎖を形作っていた妖力は四散した。自分自身の妖力の強さを図らずも実感したレミリアは、一回、二回と肩で息をつき、それから急に、周囲の空気の異質さに気づいた。空間をズタズタに切り裂かれたような違和感に全身が総毛立つ。
「ご忠告のとおり……」
「!?」
 背後からの声に、レミリアは慌てて振り向いた。立ち上った砂ぼこりが収まり、代わって、広間の中央に銀髪の少女と、周囲の空間を埋め尽くす銀色の光点が現れる。
「こいつ……!」
 レミリアを取り囲むように、幾重にも、円形に並べられた銀色のナイフは、全てその刃の先を円の中心、つまり紅い悪魔に向けていた。高位の聖職者が何日にもわたって祝福し続け、聖水で清められた純銀の刃。十重二十重の束縛の輪はどういう仕掛けか、空中にとどまり、その半径をじわじわと縮めていた。逃げ道どころか、身動き、いや、ありとあらゆる行動を封じ込めるかのように。
「もう、跳弾はやめるわね。レミリアお嬢さま」
 レミリアのお株を奪うかのごとく、その両の瞳を紅く灯した少女──小柄な吸血鬼ハンターは、胸の前で小さく十字を切り、それからゆっくりと両手を下ろした。スカートの裾を軽く摘むような仕草をし、軽く膝を折り、腰を曲げ、頭を垂れて、上品に、完璧な一礼をしてみせる。
 その瞬間、彼女の左右、腰くらいの高さの空間に、ナイフの束が現れた。最初くるくると、狂ったコンパスの針のように向きを変えていた銀のナイフたちは、自ら獲物を見つけた様に、その切っ先を空中の一点に定める。
 その切っ先が指し示す先で、レミリアは大きな目を更に見開いた。
「お休みなさい」
 許しを得た猟犬のように、獲物を見定めたナイフたちは一斉に飛びかかった。銀色の奔流となって襲いかかる。
「この程度でっ……!」
 レミリアは右手を左肩の上に回し、
「なめるなっ!」
 振り払うようにして、手の内に貯めた妖力を一気に開放した。パンッという乾いた音と共に衝撃波が広がり、周辺のナイフを無形の力で弾き飛ばす。両の壁まで吹き飛ばされた銀のナイフが、石材にぶつかってキンキンと涼しげな音を立てる、その最中(さなか)、
「……っ!」
 夜の盟主は唐突に悪寒を感じた。即座にはそれが何か、どこから来たのか分からない。頭上、足元、いや背後か、そう気付いた次の瞬間、
「……」
 無表情のまま、彼女はまっすぐに背中から、レミリアの心臓めがけて、純銀の刃を滑らせた。
 吸血鬼の背後に現れた銀髪の少女は、抜き身の短剣を右手に持ち、左手のひらを柄の端に添えて、そのまま音もなく、柔らかいバターに温めたナイフを突き立てるように、赤い服の背中に白銀の光を吸い込ませる──




「……咲夜」
 自分の名を呼ぶレミリアの声で、咲夜は我に帰った。
「はいっ……な、なんでしょうかお嬢様」
「ずいぶんと時間をかけるのね」
 はっとして、手元のポットに視線を落とす。
「はい、えっと、ええ、牛乳で入れていますから、お湯の時よりも時間をかけないと香りも味も薄くなってしまうのですよ……!」
「ふーん」
 咲夜はにっこりと微笑みながら、そろそろいいかしら、等と呟きつつ、紅茶色に染められた元・乳白色の液体を陶製のティーカップに注ぐ。
 ──城主には若干、その笑みが引きつっているように見えた。
「では、御寝所の様子を確かめて参りますので、しばらくお待ちください」
 カップの中に小さな角砂糖をふたつ落とし、細いティースプーンで溶かし込む。サイドテーブルの上にソーサを、次いでカップを置いた後、咲夜は深々と一礼をし、そのまま隣の部屋へと移っていった。
「……」
 しばらくその後姿を眺めていたが、咲夜が扉の奥に消えると、レミリアはゆっくりと手を伸ばしてティーカップの柄に指をかけた。
 ──伝染(うつ)してしまったかな。
 白い陶器の器を持ち上げ、口もとに近付けて、ふうっ、と息を吹きかる。濃いアイボリーの色をした液体の表面にさざ波が立った。立ち上る湯気の甘い香りが鼻孔をくすぐり、少しだけ、永遠に幼い姿の吸血鬼の機嫌を和らげた。
 しばらく、そのままの姿勢で湯気を楽しむ。白い湯気はレミリアの体内に入り、全体に広がって、先程までの気分を霧の中に覆い隠してくれそうな、そんな気がしたのだ。
 気がした、のだが、
「……ま、そんなに都合良くは行かないか」
 レミリアは少しだけまゆをひそめて、上目遣いになった。
 ──ここに来てから、何年が経っただろうか。
 先程から何度も繰り返した問いを、また思い出す。
 ここ、つまりは、外の世界から完全に隔離されたもう一つの浮世、現の世界。そこに住まう者から「幻想郷」と呼ばれているこの地に来てから。
 彼女が「レミリア・スカーレット」として生きるようになってから、もう五〇〇年近くが経過している。
 その年月から考えれば、ほんの僅かな期間に過ぎない。それは分かっている。客観的な数字は記憶しているし、そうでなくても、これまでの記憶をたどれば間違いなく算出できる程度のものだ。
 だが、主観的な感覚ではどうだろうか。
 ここに来る前と、来た後。
「……ま、さすがに、くる前のほうが長かったけど」
 レミリアはもう一度、ふぅ、と、カップの中にさざ波を作り出す。
 しかし、彼女が息を吹くのを止めると、すぐに波は治まってしまう。うっすらと漂う湯気も、ずいぶんとその色を薄めてしまった。
 白い陶器の入れ物に切り取られた水面は、波紋が広がるにはあまりにも狭すぎるのだ。
「……」
 レミリアはカップに口をつけ、ゆっくりと傾けた。ミルクティーの表面がその小さな上唇に触れる。
 そのまま、さらに少しだけ傾きを深めた。濃いアイボリーの液体は陶器の器のふちを越え、口の中へと流れこむ。
 半口分、レミリアは口にふくんで、また傾きを元に戻した。
「……」
 何しに、ここに来たんだっけ。
 幾度となく繰り返す自問のサイクルのなかで、これだけはすぐに答えが出る。
 しかし、その答えは間違っている、そう主張する声は一向に納まらない。
 ──聞き方を変えよう。
 ここに来たら、どうなると思ってたんだっけ。
 ここに来ると決めたとき。ここに来るための最後のピースが揃ったとき。
「……咲夜」
 レミリアはティーカップから口を離して、小さくつぶやいた。
「やっぱり、渋いわこれ」




 バサッ!
 純銀の刃を差し込んだ、と確信したその瞬間、一瞬にしてレミリアの姿が黒い影となって破裂した。破片ひとつひとつがコウモリの姿をとり、ギャアギャアと鳴きながら四方八方に飛ぶ。その中の数匹は短剣を構えた少女の方にぶつかってきた。
「……くっ!」
 決定的なチャンスを逃した、いや、逃げられた。そう悔やみつつも崩れた姿勢を何とか正して着地、と同時に後ろに飛んで距離をとる。が、何十匹と現れたコウモリ達は少女をそれ以上攻撃するわけでもなく、思い思いに広間中を飛び回る。
 どうする、と銀髪の少女は一瞬考えた。一匹ずつ屠るか、どうにかして一ヶ所に集めるか、それとも──

 ──ふふふふっ……

 小さい子供の笑い声が聞こえた。大広間の全体に反響して、声というよりはまだ「音」にしか聞こえない。輪郭のぼやけたその「音」は強すぎる残響音を引きずりつつ、あらゆる方向から少女の鼓膜を逆なでする。

 ──あはははははっ……!

 絶え間なく続く羽音のノイズの中、「音」の輪郭は少しずつ鮮明に、「笑い声」になっていった。それに同期するように、舞い上がったホコリのように無秩序だったコウモリの動きが少しずつまとまりだす。少女は気を引き締めた。手早く短剣を腰の鞘に戻し、両手に再びナイフを構える。

 ──まいったわ。

 「声」と認識出来るまで鮮明になったところで、その音源は笑うのを止めた。

 ──完敗。なんて楽しい人間なのかしら。

 小さな女の子の弾むような声をまといながら、まるで闇がそのままうごめいているかのような黒い翼手目の群れは、時折その紅い目玉を光らせながら少女の頭上を周回する。
「……お褒め頂き恐悦至極ね」
 バタバタバタという羽音が空間をぐるぐると巡り、少女の方向感覚をがりがりと削ってゆく。

 ──空間把握だけじゃなかったのね。瞬間移動できる能力?

「何のことだか微塵も分からないわ」
 コウモリに注意を向けてはダメだ。脳のどこかで警報が鳴る。目をつぶりたい、耳を塞ぎたい。気を許せばあっという間に引きずられる。もろい意識を懸命につなぎ止め、頭を振りたいところを必死に我慢した。
「けど、そうだとしたら、降参でもしてくれるの?」

 ──ふふふっ、そうね。

 どうする。
 彼女はもう一度自問した。
 一分の隙もなく構え、全周囲に気を巡らせながら、銀色の頭の中で思考をフル回転させる。しかしその回転は、現状では空回り以上のものではなかった。
 制限時間は残り僅かだ。
 それだけはしっかりと分かっている。刻一刻と選択肢が消えていく。可能性が潰されていく。
 そう仕向けているのは吸血鬼か、それとも自ら滑り落ちて……
 いやそもそも、選択肢などあったのか?
 最初からこの道しか無かった気がする。……最初とはいつのこと? 先程仕留められなかった時なのか、それとも──
 素早く二回瞬きして、彼女は思考の迷宮を脳から放り出した。額をつたって降りてきた汗がまつ毛にはね上げられる。

 ──それも面白そう。でも、その前に、

 パン! という衝撃波と共に、唐突に眩い光の線が天地を結ぶ。と同時に空中の一点から光があふれた。闇になれた鉛色の瞳に鋭く突き刺さる。
「つっ……!」
 あわてて目を細め、両手で影を作った。
 一方でコウモリの集団は、焚き火に集う蛾のように次々とその光へ飛び込んでいく。闇の破片を飲み込んで光球は急速に膨れ上がり、同時にその明度は闇色に染められていった。漆黒の光のなかにワンピース姿のシルエットが浮かび上がる。その背には大きな悪魔の翼。
 シルエットの翼は大きく一度、羽ばたいた。
 空中に紅く、シルエットの輪郭が引かれる。暗闇に浮かび上がった輪郭は陽炎のようにゆらめき、鼓動のように明滅を繰り返す。もうひと羽ばたき。風に舞い上げられた粉雪のように紅色の光の粒が浮かびあがり、砂絵のように次第に繋がって幾何学的な模様を描いていった。吸血鬼のシルエットより二回りは大きい二重の円と、その内側にぴったりと収まる、正逆組み合わされたひと組の正三角形。ゆっくりと回転する二重の円の間には、その曲線に沿って細かく文字が刻まれている。

《On rencontre sa destinée.
  Souvent par des chemins qu’on prend pour l’éviter.》

 ハンターの少女には意味どころか、どこの言葉なのかすら見当もつかない。
 そしてシルエットは明度と彩度を増し、ついには再び、この館の主は姿を表す。
 先程までと同じように、薄い赤のナイトキャップ、大きな赤いリボン、紅く染められたワンピース。プラチナ色の前髪と、その後ろから覗く紅玉のような大きな瞳。その小柄な体躯とは不釣合なほど、大きく広がった悪魔の翼。
 しかし違うのは、背後に背負った、空中に描かれた真紅の魔法陣。体の輪郭から立ち上る紅い気配。その立ち姿から圧倒的な威圧感を放ってくる。
「見た目が派手になったわね」
 無理やり、銀髪の少女は声を絞り出した。
「お色直しですもの」
 ゆっくりと瞼を開く。
「派手な輪っかを背負うのが『お色直し』?」
 ぎこちなく口もとを引き上げる。
「ずいぶんと手抜きなのね」
「お気に召した?」
 にっこりと笑い、口元から八重歯をのぞかせる。しかしその表情も一瞬のことだ。
「さてと……改めて、おもてなしをしなくっちゃね」
 すっ、と目が細くなる。
「気に入ってもらえるといいのだけど」
「!?」
 とっさに神経を全周囲に向けた。もう遅い。
「さあ、ティーカップに紅茶を注ぎましょう。蝋燭に火を灯すのよ」
 館の主は主賓に向かって、ゆっくりと両手をひろげる。バサッ、と一度、背中の羽が大きく揺れた。
 暗闇に光が灯った。まるで冬空に輝く満月のように、強く、明るく、しかし吸血鬼の瞳の色のような真っ赤な光が、円周上を均等に八つ。紅い悪魔を大きく取り囲む。
 間を置かず今度は十二個の光球が等間隔に、さらに大きな同心円を描いた。続いて十八個、二十七個と、半径が大きくなるにつれて個数も増えてゆく。太陽を中心にした惑星軌道のように、あるいは陽子と中性子を囲む電子の雲のように、空中で両手を広げる赤色の少女を中心に幾重にも輪を描く。──先程、吸血鬼を取り囲んだ銀色の刃のように。
「ちっ……!」
 その輪の内側に、既に銀髪の少女も捉えられていた。光の数珠の輪は中心を固定したまま、ゆっくりと、それぞれ方向や傾きを変えてゆく。
「準備はいい?」
 さあこれから、ケーキに立てられたろうそくの火を吹き消すわ、とでも言いそうな屈託の無い表情で、空中に浮かぶ吸血鬼は宣言した。
「お茶会の時間よ」


 ぱん、と女の子が両手を合わせた。
 その合図に合わせて、最も内側、レミリアに近い軌道を廻っていた光球が一斉に光りだす。次第に明るさを増し、突然その中心から光を吹き出した。
「ちょおっ!?」
 吹き出した光が別の光球にあたると、連鎖するようにその光球も別の方向へ光を放つ。あっという間に網目のような、光で出来た幾何学模様が空中に描かれた。
 銀髪の少女はとっさに身をひねってかわす。幸いにして幾何学模様には法則があるようで、注意していれば避けられそうだ。が、
「さっきの貴方の技は、こうやって相手の動きを抑えこんで、」
 レミリアが、胸の前で合わせた手をぱっと大きく開いた。彼女の周囲に真っ赤な球が大量に現れた。妖力が固められて出来た、大小様々な大きさの紅弾の群れ。
「止まったところに思いっきりぶつける、だったっけ?」
「そうだけど違う!」
 彼女が叫び終わるより早く、紅弾は猛烈な勢いで襲いかかる。
「違うってば!」
 素早く短剣を抜いて、正面に跳んできた小さな球を弾いた。直線的に飛んでくる紅弾の軌道を見定めて、次々と弾き、あるいは避ける。蜘蛛の巣のように張り巡らされた光の網目に触れないためには、最小限の動きでやり過ごすしかなかった。
「その次は相手の後ろに現れる、だけど……」
 レミリアは小さな顎に右こぶしを当て、少しだけまゆをひそめた。
「さすがにそれは無理だわ。ずるい」
「ずるいのはお互い様でしょ!」
 飛びかかる紅弾をさばきながら叫んだ。さすがに、ただの人間である銀髪の少女には、ひと薙ぎで全ての攻撃を弾き飛ばすような芸当は出来ない。
「仕方ないから、」
「ひとの話を聞きなさい!」
「少しアレンジしようっと」
 吸血鬼は握ったこぶしをぱっと開く。
 途端に、光の網目が崩れた。破片のひとつひとつがゆらめき、波打ち、全体として渦を描くようにして、全ての紅弾を捌ききった少女を、間髪を与えず呑み込みにかかる。
「だーかーらっ!」
 たまらず、彼女は飛び上がった。地上だけで避けるのは無理がある。五メートルくらいの高さまで一気に飛び上がって光の波の大部分をやり過ごし、跳ね上がってきた欠片を弾き飛ばす。
「あれ?」
 反射的に振り向いて、ほぼ同じ高さにいる吸血鬼と目があった。
「あ」
 新しい玩具(おもちゃ)を見つけた子供のように、レミリアは目を輝かせる。
「貴方、空を飛ぶことも出来るの?」
「ま、まあ、ひと並みには……」
 一瞬で悔やんだ。なるべく手の内を明かすこと無く短時間で屠る、などと決めてきた計画がどんどんご破算になっていく。
「本当に面白い人間」
 レミリアは楽しそうに微笑んだ。細めた目から猛禽類の瞳孔が覗く。
「その分だと、まだまだ先がありそうね」
 光の破片が流れ去ってしまう前に、新しい光球の輪が現れた。
「無いから! そんなもの何もないから!」
「だーめ」
 レミリアは再びぱん、と手を叩く。再度現れる光の網目。先程とは微妙に角度が変わっている。
 しかし銀色の頭の中で、チャンスだ、という声がした。今の吸血鬼は楽しんでいる。
「もう一回行くわよ?」
 手を開き、多数の紅弾が現れた。間を置かず少女に襲いかかる。今度は先程より軌道が上下左右に広がっていた。
「同じ手は……!」
 銀髪の少女も同じように、体捌きで避け、あるいは短剣で弾き飛ばす。そしてそうしながら、じわりと少しずつ、レミリアとの距離を詰めていった。
「ふふふっ」
 レミリアは楽しそうに、また結んだ手をぱっと開く。光の網が崩れ、波打つ。
 ──ここ!
 攻めの主体が紅弾から網目の破片に移る、その一瞬の隙をついて彼女は動いた。鉛色の瞳を紅く灯す。動きの止まった弾や破片を避けて吸血鬼のすぐ後ろへ。短剣を抜いて構え、その白い首を切り落とすべく、動きを開放すると同時に振り上げた──
「……うーん」
 キィンッ、という、硬度の高い金属同士を思い切りぶつけたような高周波が響く。彼女が振り上げた純銀の刃は吸血鬼の体に達する前に、紅い光を放つ棒状の何かに阻まれていた。
「がっかり。それはもう見せてもらったわよ?」
 少女のこめかみを冷たい汗が伝う。
 腰だめに構えた短剣が吸血鬼の首に達するまでに、いったいどれだけの時間があったというのか。この小さな女の子はその間にこの背後からの攻撃を知覚し、妖力を固め、切っ先の軌道に反応して、さも当然のことのように防御して見せたのだ。紅玉の瞳は正面を向いたまま。
「しかも、さっきよりもてんで雑だわ」
「……もう打ち止め、って言ったでしょ」
 しびれる右手を抑えつけるように、短剣に左手を添え、渾身の力を込める。
「ほんと、ひとの話を聞かない、お嬢様だこと……」
「お世辞はいいわ。頭のいい訪問者さん」
 レミリアは正面を──彼女とは反対方向を向いたまま言った。
「貴方は自分の頭の良さを自覚してるのね。だから何もかも隠そうとする。だからそんなに決断が遅い。用意ができるまで動こうとしない」
 一見何の力もかけていない様に見える。短剣の刃を食い止めた棒は実はそこに固定されていて、女の子はその棒に、両手で触れているだけであるかのように。
「そして、全ての選択肢が目に見えていると思ってる」
「そんなに、上等なものじゃ、ないわ……」
 地に根を張った巨木相手に力比べをしているような錯覚を覚える。だが力を抜いた瞬間に、自分は弾き飛ばされてしまうと分かっていた。
「道があれば貴方は来る」
 吸血鬼は独り言のようにつぶやいた。
「運命を避けるための道なら、特にね」
「!?」
 思わず体が反応する。右足を上げて短剣の柄を踏み、手を離すと同時に思い切り蹴った。案の定、得体のしれない強い力で吹き飛ばされるが、それを利用して距離を取り──
「そして、その道の先で、」
 レミリアは片手を振り上げた。再び四本の鎖が放たれ、姿勢を崩して思うように動けない少女に上下左右から襲いかかる。
「くっ……!」
 鎖は彼女の両手両足に絡みつき、あっという間に空中に張り付けにした。彼女は力を込めて振りほどこうとしたが、完全に固定されていて、動かすことすらままならなかった。
「貴方は運命に出会うのよ。……貴方と同じ人間の言葉だわ」
「知らないわよそんなの!」
「ええ、そうでしょうね」
 そこでようやく、吸血鬼は振り向いた。ゆっくりと、空中の一点に捉えられた獲物に向き直る。
 短剣を食い止めた紅い棒状の得物を右手に持ち、それをバトンのようにくるくると回す。その勢いのまま一文字に右に振り抜くと、細く固められた妖力はその輝きを増した。先端が鋭さを増し、後方に向けて二筋の光が延びる。身長の三倍はあるだろう長い槍を横に構え、それからその鋭い槍先を高く掲げた。
「さあ、次の運命は、どう避けるのかしら」
 レミリアは掲げた右手をぐうっと後ろへ反らす。その両の瞳に獲物の姿を映したまま、左肩を前に入れ、小さな上体を目一杯引いた。
「さあね……!」
 投擲の姿勢をとる吸血鬼をにらみ返しながら、紅い鎖につながれた銀髪の少女は口元に笑みを浮かべてみせる。
「……」
 レミリアの紅い瞳はまばたきすらせず、じっと少女を捉え続けた。
 少女もまた鉛色の瞳で、大きく振りかぶった姿勢の吸血鬼を見つめ返す。
 正直なところ、今の彼女にはまったく打つ手が無かった。
 片腕、いや片足だけでも自由であれば、残りの四肢を切り落としてでも脱出することが出来ただろう。もちろん吸血鬼のような力があれば、鎖を引きちぎることも可能だったはずだ。
 しかしながら現実はそうではない。全くの不意を打たれた状態で何の仕掛けも出来ないまま、完全に鎖で縛られ固定されてしまった。
 あるいは、床に散らばったナイフを集めて盾にすることは出来るかも知れない。あの吸血鬼の槍に貫かれる前に、槍自体を「止める」ことも出来るかも知れない。でもそれだけだ。単に当たる瞬間を先延ばしにするだけのことである。逃げることも、助けを待つことすら出来ない。
 まったく……。少女は表情に出ないよう気をつけながらため息をついた。
 我ながら、不甲斐ないとはこのことだ。
 全てを見透かされたような吸血鬼の言葉に、情けなくも動揺してしまった。そんな訳はあるはず無いのに、ブラフに引っかかるとは私らしくない。
「……どうしたの。その手に持った槍は飾り?」
 強気を装って挑発する。……さっさと幕を引くために。
「……」
 紅い瞳の女の子は何も言わず、ただゆっくりと目を閉じた。肩に隠れて、表情は見えない。
 紅い槍の先端が揺れた。微かに上を向き、少しだけ後ろに下がって、それから──
 紅い影がブレた。小柄な体躯の全身のバネを使って、妖力で形作られた大きな槍が打ち出される。細かい光点をばらまきながら一直線に、張り付けられた少女の左胸を目がけて、
「そこまでよ」
 銀髪の少女を貫く一瞬前に、金色の魔法陣がその進行を阻んだ。





(続く)